251109

 2025年は自分にとってどういう年だったかというと、ようやくエヴァンゲリオンのことをどうでもよくなれた年ということになるでしょう。きっかけはジークアクスの映画を観に行ったことで、いろいろあるんですけどやっぱり先行上映版という世に1番最初に出るものでああいうことをやるのは主役であろう3人のことをあんまり考えてないんだなと思えたのがかなり大きいです。流石に劇場版だけだとは思いつつ、とはいえこういう判断を通す作り手ならTV版でもそうなっていくだろうし、でもそういうことを良しとしてきた人たちなのはずっとそうなので、じゃあもういいね、と後ろ髪を引かれることもなくどうでもよくなれました。TV版は結局見てません。

 ついでにいろいろあったエヴァンゲリオンまわりの物もすっかり処分して、いま手元にあるのは新劇場版のブルーレイとQの絵コンテ、あと破の上映イベントでもらった第3新東京市の住民票(大爆笑)くらいです。月1エヴァにもいってませんし、フェスのチケットも取っていません。嫌いになったとかではなくどうでもよくなろうと思って、きちんとどうでもよくなれたのでよかったです。

 

 それとは別にいろいろあって、長めの文章をまた書くためになんでもいいから文を書く習慣に取り組みたいと考えた時に、準備運動として力まずにけれどある程度長く書けるもの、となった時に浮かんできたのがシンエヴァについてのことでした。昔取った杵柄です。このブログでも未練がましく書いていますが、心が冷めつつもどうでもよくはなっていうないという時期の文なのが今見返すと恥ずかしい限りです。それに比べると、どうでもよくなった今はどうでもよくなったなりにしっかりと結論を出せたような気がします。

 書くにあたって一応最低限の見返しはしましたが、全部見たわけでもありません。そんな気力も熱意もなくなっているので、認識の齟齬や読解の不足が多々あるでしょう。そのへんは遠慮なく見下したりしてください。今更シンエヴァについて深く考えることに価値がないと言われれば心の底から同意するんですが、軽いさよならみたいなものです。
 というわけで、たぶん人生で最後のエヴァ長文です。トピックごとの箇条書きではありますが。


◯シンジについて
・新劇場版の制作における重大な出来事に、スタッフ間でのシンジの再解釈とその定着というものがあります。
・詳しくは破のパンフに書いてあるんですが、かいつまむと

 ・「男の戦い」でエヴァに乗らないと決めたシンジが移動中にゼルエルが襲来し、最終的にジオフロントにいたシンジが避難の途中で加持に出会いエヴァに乗るというシーンについて、
 ・鶴巻和哉含むほとんどの人間は「乗りたくないが乗らないといけないのがわかっていて、だから乗らないという態度でありながらジオフロントまでたどり着いていて、最終的にやっぱり乗らなきゃいけないと観念して乗った」と解釈していた(解釈A)
 ・しかし庵野秀明に尋ねたところ、「本当に乗らないと決めていて、他のことは考えられないくらいに心が閉じている」という解釈だった(解釈B)
 ・演出の摩砂雪が、脚本にあった解釈Bの要素はそのままに、解釈Aと受け取れるように演出を行った結果、庵野秀明からも鶴巻和哉含む多数からも異論が出ない映像になり、多くの人は解釈Aのシンジ像を持つという状況になった

 というもの。

・繊細で他人を気にする少年というのもシンジの一部ではあるが、それと同じくらい「頑固で一度こうと決めると人の話を聞かない」という面もシンジであるというのがおそらくこの件を経てスタッフ間でも共有されたのでしょう。だからQのシンジがああなっている。突然頑固になったのではなく、あれが本来の碇シンジなんですね。
・また、シンジのこういった面は上記の再解釈で“生えてきた”ものではありません。TVアニメの3・4話を思い返してほしいんですが、命令を無視して使徒に突っ込み家出をする、シンジはそういう人間です。これらのことを踏まえると、Q・シンが結局のところ3話・4話をもっかいやっているだけなのがわかります。
・そういった人間の成長が「話を聞くようになる」となるのは順当でしょう。たとえその結果、旧劇場版とあまり変わり映えしないおっさんの内心を延々聞かされるのだとしても。
・そうなると焦点は「シンエヴァのシンジはきちんと人の話を聞くことができるようになっているのか」です。ミサトに自分も責任を負うと告げ、レイやアスカを解き放ち、とうとうカヲルに対しても手を差し伸べ、ゲンドウと決着をつける。こう書くと、ある程度はできてる。ある程度、と留保をつけたのは北上ミドリがいるからです。
・ミドリはニアサーで家族を失いました。だからシンジやゲンドウなどこの事態を引き起こした人間を憎んでいる。当たり前です。そして後にサクラやミサトが指摘する通り、シンジがエヴァに乗ることで救ってきた人のひとりでもある(ミドリはこの点を自覚していない/目を背けている)。
・そんな人間とシンジが対立するのは当然だし、期待します。なぜならどうやっても単調な解決にはならないから。仮にシンジによって命を救われたことをミドリが受け入れたとして二アサーで家族が死んだことは覆らないし、相殺もできないでしょう。そしてシンジにとってミドリは、エヴァに乗ることで救ってきた人間の1人であり、エヴァに乗ったことで人生を壊してしまった人間の1人でもある、身内と呼べないが絶対に無関係ではない人間です。そうした人間から、まさしくシンジの言う「落とし前」を迫られたとき、シンジはどうするのか。
・実際どうなったか。銃口を向けたミドリをシンジが睨んでいるうちに、ミドリと同じく「シンジに救われもしたがシンジの被害を受けた人」であるサクラが乱入して発砲し、さらにミサトが出てきて名演説をぶちかましてうやむやになりました。嘘だろ。
・あのシーンは劇伴と演技があまりにも素晴らしいのですが、落ち着いてみるとただただミドリがうやむやにされているシーンです。むしろミドリがいることで話がややこしくなっている。
・仮にミドリ抜きでの場合を考えてみます。シンジがミサトに初号機に乗ると伝え、ミサトがそれを受け入れる。それを察したサクラが甲板に出てきて、シンジを止めようとする。サクラが撃つ。ミサトがかばう。演説する。サクラが折れる。事態が収束し、シンジがエヴァに乗る。
・こうなっても、話の筋は特に変わりません。シンジの決意も、ミサトの吐露も、サクラの踏ん切りも、実際のシンエヴァと変わらない。なんなら、「騒ぎを聞きつけて駆けつけたクルーの中にいるミドリが、顛末を見てひとり諦めたようにため息をつく」シーンでもあれば、観客にミドリの葛藤の決着は十分伝わるのではないでしょうか。
・なぜこうなるのか。浮かび上がってくるのは、ミドリとサクラの(シンジに対する)役割の違いというものです。上に書いたように、2人ともシンジが救ってきた人であり、シンジがきっかけとなって大切な人を失った人間である。ではどこが違うのかというとシンジとの距離感です。ミドリはシンジにとって赤の他人であり、サクラは友人の妹である。
・もしあの場面のシンジの意図が「憎まれることを黙って受け入れる」だとしたら、大事なのは「受け入れる」の部分です。しかし少なくとも本編に、「受け入れた」と解釈できる描写はありません。横から乱入してきたミドリを複雑そうな表情で見つめるものの、正面から向き合ったりはしない。そこから何かをする前にサクラが乱入してしまう。「憎まれることを黙って受け入れる」のうち、画面にあるのは「黙って」だけ。ついでにここでミサトもぼっ立ちしていてなんのリアクションも取ってなくて、一時停止するとちょっとおもしろいです。
・しかしサクラに対しては姿勢を変えて正面から向き合い「僕をエヴァに乗せてください」と語りかけている。なぜサクラにだけなのか。ここで「サクラさん、それからミドリさん」と2人に呼びかけていればよかったのですが、そうなってはいない。なぜか。そう考えると、どうしても「サクラは友人の妹で、ミドリは他人だから」という答えが浮かんできてしまう。なまじ最初にシンジとミドリが対峙したせいで、「人の話をきちんと聞く」という成長を遂げたはずのシンジが「自分の行為の被害者に対して、身内であれば真摯に対応するが身内以外ならぞんざいになる」というなんか生っぽい嫌さがある人間に見えてしまいます。
・また、ミサトの演説が終わった後にシンジが改めてミドリに対して謝った後に償いとしてエヴァに乗る決意を伝えるというような描写があれば、銃口を向けられた時の態度が「憎まれることを黙って受け入れる」だと解釈できます。しかしそういったフォローもありません。
・こうなると、ゲンドウと対話したことも逆に足を引っ張ります。ゲンドウとも対話できるようになったのにミドリは無視するのがシンジだ、となってしまう。
・この「身内には向き合うが、それ以外はぞんざい」という視点を得ると見えてくることがあります。村でのシンジは決意を育んでいる途中だからノーカンとして、ヴンダーに戻ってからオペレーター3人衆はもちろんサクラ以外のヴィレクルーとシンジが会話するシーンが存在しません。一応マリがいますが、彼女はシンジの行為による被害者ではありません。
・例えばヴンダーに戻った後、サクラ以外の人々に「勝手に抜け出してすみませんでした」「ニアサードインパクトを引き起こしてごめんなさい」「だからこそ、自分にできることをさせてください」と伝えるシーンでもあればだいぶシンジの印象は変わります。それだって立派な「落とし前」になりますし、それに対するクルー各々の反応だって描けたでしょう。しかし、映像として馴染まなかったのか不適切または不要だと考えたのかはわかりませんが、そういった場面は存在しませんでした。
・代わりにシンジがとった行動は、黙って監禁され、黙って抜け出し、勝手にミサトと話をつけ、ミドリには言葉をかけず、サクラには言葉をかけ、事後承諾で初号機に乗ってなんとかするという行為で、おまけそれがまかり通る。なぜならシンエヴァにおいて責任取りTier1は「命をコストになんとかすること」で、それが場に出た瞬間他の全てに勝利するからです。

・責任とは行動で示すものというのは正しいですが、言葉と行動の両方で示してもなんの問題もありません。しかしシンジはミドリには顔を向けるのみで、サクラには言葉をかけました。少なくとも本編の映像を見る限りは、シンジにとっての「落とし前」は「迷惑をかけた身内に深く向き合う」ことのみを意味しています。シンジがすべきだったのはただ深く向き合うことではなく、広く深く向き合うことだったのではないでしょうか。
・この「落とし前」も、シンジが人の話を聞けたという描写です。これはそもそもトウジの言葉で、シンジはそれを聞いてそうだなと思い、自分でも使うようになった。これが話を聞くということです。他人の話に耳を傾け、噛み砕いて受け入れ、自分を変えるということです。
・ただそれで言うなら、「逃げちゃだめだ」も直前にミサトが言ったことではあります。つまり、もとからシンジは人の話に耳を傾けることができないわけではなかった。だから正確に言うと、シンジの成長はそれをきちんと適切にできるようになったというべきでしょう。そう考えると、やっぱりシンエヴァの流れ自体は正しい。ただそれで描かれたのが、旧劇場版と変わり映えしないしみったれたおっさんの内面だったり、身内以外には深く向き合わないという態度だったのがよくなかった。


◯ミサト
・お話を丸く収めるための犠牲になった人という印象が強いのは、やっぱり最期が流れで死んだようにしか見えないからです。加持の細工でもヴンダーの意志でも理由はなんでもいいのでなんか奇跡が起こって生き残ったところで、感動が損なわれるとは思いません。それでも死んだミサトの結末からも、シンエヴァ(ひいては庵野作品)での責任取りのTier1が「命をコストになんとかする」なのが見えてきます。
・シンエヴァにおいて、「命をコストになんとかする」は文句なしの責任取りTier1です。まずシンジとミサトがその選択をするし、それ以前に加持もその選択をして死んだことが明かされていて、なんだったらユイもシンジの代わりに命をコストになんとかするし、ゲンドウも最終的にはユイと共に命をコストになんとかします。シンエヴァは、メインキャラが5人も「命をコストになんとかする」を選びそのうち4人がそのまま死んでいる作品です。ついでに言えばリピアーも本郷猛も「命をコストになんとかする」を選んでそのまま死ぬ。
・ただ、ミサトの場合は話が変わってきます。なぜなら同じ立場から「命をコストになんとかする」を選んだシンジが、「命をコストにしてなんとかしようとするのを予期していた母に庇われて助かる(庇った母が命をコストになんとかする)」という結末を迎えているから。同じことをして1人に奇跡が起きて1人が普通に死ぬと当然疑問が湧きます。ミサトは奇跡に値しない人物なのか?
・これは前も書いたかもしれませんが、ミサトは死んだことで「ネグレクトに苦しんでいたのに最期に親に庇われていろいろこじらせた人が、より上手にネグレクトをやり(親だということを明かさない)、親と同じことをして死ぬ」という人になってしまいました。不器用ながらも善を全うしようとした人、にしたいのはなんとなくわかります。でなければ序や破で明確に描かれた子どもたちを気遣う場面の意味がないし、自分の命も担保するような器用さがあるのはミサトらしくない。それはわかる。でも、意図せず生き残ってしまうくらいの救いがあっても、死ぬことにも失敗してしまうという点で不器用な善人の末路たりうるのではないか。
・何より、「人物の可能性を限定しない」を最後のテーマに据えた作品で、「不器用な善人が最善を尽くし不器用に死ぬ」という結局旧作と変わらない落とし所しか与えられなかったのが不憫でなりません。


◯レイ
・シンエヴァ全体を通して、「人物の可能性を一つに限定しない」というテーマがあるのは見ていてなんとなくわかります。エヴァパイロットたちにも、エヴァに乗る以外の人生がある。カヲルはシンジを救うだけの存在ではない。アスカは戦うためだけの人形ではない。レイは計画のためだけの駒ではない。このテーマ自体はTVアニメの最終話から引き継がれているもので(学園エヴァのところですね)、シンエヴァで再び描かれるのも頷けます。問題は、それが適切に描写されているかどうかです。
・レイの場合、正直よくわからりませんでした。というのも、3人目の扱いがどうにも自分の中で腑に落ちていないからです。
・“綾波レイ”全般を通して描かれているのは、「たとえ叶わなくても叶えようとしたことは無駄ではない」なのかな、という気はします。「碇くんがエヴァに乗らなくてもいいようにする」という命を賭した願いは叶わなかったが、思いは伝わった。別レイはシンジに名前をもらいたかったが、綾波綾波である、と言われてしまった。
・この名付けの流れがいまいち腑に落ちていません。「綾波っぽくないことをするからといって、綾波ではないということはない。土に触れ、人と関わり、赤子とのふれあいを喜んでも、綾波綾波である」という事をやりたいのでしょうけど、でもそれを別レイという正真正銘の別人を通して描かれると、「綾波レイには様々な可能性があり、一見“らしく”ないように思えてもそれは肯定すべき綾波レイの姿なのだ」という祝福が「何をしても綾波レイ綾波レイなので、たとえ別人でも綾波レイである」という束縛に感じられてしまいました。
・その実感を強めるのが、2人目も3人目も「死んでシンジの決意を覚醒させる」という末路をたどるところ(2人目は厳密には死んでいなませんが)。3人目のレイをしっかり描くというのはメインスタッフの誰かが旧劇場版でやりそこなったこととして挙げていて、実際そこに手を付けたのはおおーと思ったのですが、結局2人目とほぼ同じ印象になってしまったのは不完全燃焼でした。

 

◯アスカ
・上記の「人物の可能性を限定しない」が比較的上手に行っていたと思います。惣流ではない式波として登場し、式波固有のアイデンティティがあり、それがシンジとの対話によってきちんと解決する。シンジとの強い関わりを持ちつつも、それを過去のものとして区切りをつけ、シンジ以外とも親しくできる。気になるのは序盤のシンジに対する当たり方で、「逃げ回るのが常套手段」みたいなことを言うところ。Q以前のシンジとアスカの面識はマジで破が全てで、少なくとも破の作中でシンジがアスカに対してそんなに苛立たせるようなことをした覚えはありません。このあたり、なんとなく惣流の手癖が混ざってないか?と思ってしまった。
・問題になるのは終盤のあの海岸のところです。絵面や会話自体は感動的ではありますが、公開後に発売されたあの場面のフィギュアの尽くが「アスカ・ラングレー」名義。となるとおそらくあの場での会話は、式波アスカとシンジとの決着であると同時に、惣流含む総体としての「アスカ」への決着としての意図があったのでしょう。そうなると、2人目のレイと3人目のレイは別人じゃないですか?と同じ疑問を感じてしまいます。
・ただ、「パペットだと思っていたらきぐるみだった」という描写はとてもよかった。自分を受け入れて当たり前の自分との対話だと思っていたら、そこにきちんと他人がいてくれて、その他人が自分を受け入れてくれていた、という落とし所をあんなふうに描かれると納得せざるをえない。シンエヴァはこういった光る描写がところどころにあります。ところどころにしかない、とも。

 

◯ミドリ
・シンジの項目でかなり書いてしまったんですが、作劇上重要そうに見えるし実際重要な役割のはずなのに、ほぼ同じポジションでありつつ身内補正で説得難易度の低いサクラというキャラクターに乱入されて全てをうやむやにされてしまいました。現状の映像においてミドリを通して伝わってくるのは、「誰かを恨んでも幸せになれない。過去にとらわれるよりも未来を見て生きていこう」というテーマをガビガビにしたよくわからない何かです。
・流石にどうかと思ったのか、ブルーレイの映像特典である程度来歴が掘り下げられました。掘り下げられたんですが、その結果ますます本編での落とし所がうやむやになっただけなのが際立ってしまった。気になる場合は月一エヴァでQを見ると同時上映されるらしいので、ブルーレイ買うよりも安価に済ませましょう。
・ミドリの「みんな身内に甘すぎ」という言葉に対する有効な結論を結局シンエヴァは提示できませんでした。なぜならシンジが「身内には真摯に対応し、それ以外はぞんざい」を貫いてしまったから。せめてシンジと会話をさせてほしかった。


◯カヲル
・「人物の可能性を限定しない」がうまくいった人物。シンジに対する執着が自分のエゴだと認めることで、ようやくシンジと対等な関係を築くことができたというのは納得できるうえに美しい。しかもシンジがカヲルに手を差し伸べるまでに成長する過程にカヲルの存在は不可欠だった。確かにカヲルのエゴはシンジを幸せにすることはできなかったかもしれないが、シンジが大人になる手助けをしたし、回り回って自分を救った。これ以上ない落とし所です。


◯初号機
・満を持して登場するもかっこいい場面がほとんどない。予告で出た例の槍を構えたカットで期待した人は多かったと思うんですが、まさかの構えた槍をそのまま掴まれてマイナス宇宙に突っ込むという出落ちシーンだった。その後はひたすら第13号機に突っ込んでいっては投げられて終わり、流れで槍を渡しほぼ画面に出なくなってほぼそのまま。かろうじてかっこよかったシーンを挙げるとすれば、第13号機の脱出装置を使ってアスカを助けるシーンくらいです。
・特撮っぽい戦闘シーンについて言えば、これはもう難癖なんですが、せっかくモーションキャプチャーを使っているのに「エヴァのスーツを着ている人間の動き」ではなく「人間の動き」だったのが個人的に残念でした。ミニチュアが散らばったりするシーンは確かに楽しいんですが、すぐ終わって投げられまくる上に「戦闘に意味とかないから」と相手から言われてしまう。実際そうなのかもしれないが、もう少しなんとかならなかったのかという気持ちがずっとありました。
・初号機の活躍について引き合いに出すとなると旧劇場版でしょう。それこそシンエヴァと同じようにどう考えても期待しかない出撃シーンからあっさり捕まって補完計画の材料にされて戦闘シーンがなかったのはたしかに失望するかもしれないし、流石にシンエヴァのほうがよかったと思う人もいるかもしれません。でも旧劇場版がシンエヴァと違うのは、最後はきちんと初号機が締めたところです。遙か未来目指すための羽を広げ、槍を使いサードインパクトを収束させて日付のない墓標として宇宙を漂う。戦闘シーンこそないものの、主役機のたどる結末としては満点と言ってもいいものです。
・シンエヴァは流れこそ近いが、ネオンジェネシスで印象的なのは初号機よりも13号機でした。愛する人を抱きしめ、己もろともエヴァを消し去る槍を構えるというあまりに美しい四本腕の使い方は手を印象的に描いてきたエヴァンゲリオンの中でもかなりいい感じにまとまっていました。そして初号機は、13号機に抱きしめられながら大人しくさらばンゲリオンして消えていっただけになってしまった。あの旧劇場版ですらできていた「主役機が最後を締める」が、シンエヴァにはありません。
・第13号機が真の主役である、と言おうと思えば言えると思う。ただ、そうなると終盤の主役はほぼゲンドウじゃんという事になってしまい、そして実際そうなっているので、シンジと初号機の立つ瀬がない。なんだかんだで俺はシンジと初号機にエヴァンゲリオンを締めくくってほしかったんだなと実感せざるを得ませんでした。
・そして最後を締めたのは8号機です。正直言ってあんまりかっこいい戦闘がない8号機γですが(そもそもシンエヴァの戦闘シーンはほとんどあんまりかっこよくない)、それでもあの最後は美しかったと思う。ロボットがパイロットを送り届ける鎧となり船となり、役目を果たして消えていく。13号機と8号機γの活躍を描く作品として、シンエヴァは満点です。主役機は最後に活躍しなければいけないなんて観客の勝手な願望だと言われれば、ぐうの音も出ません。


 というわけで、シンエヴァ振り返りでした。
 恥ずべき過去として葬るのもかけがえのない青春だったと噛みしめるのもどちらも違っていて、どうでもよくなろうと思ってどうでもよくなれていて安心しました。とはいえまだこんな長文が出てくるあたりまだまだ執着してるだろと言われたらぐうの音も出ないんですが、たぶん今後エヴァンゲリオンに関する長文を書くことはもうないと思います。冒頭にも書いた通り、軽めのばいばいの挨拶です。

 あとやっぱり、「さようならはまた会うためのおまじない」はこじつけいい話すぎるだろと思います。そういうときは「またね」って言えばいいので。

 そんなわけで、ここまで読んでくれてありがとうございました。さらばンゲリオン~。

 

 

210308

 無理をして書くべき文章ではないのですが、かといっていつまでも放置してていい文章でもないのはわかっていて、それでもなかなか今作についての文章を書く気が起こりませんでした。厳密に言うと公開時に短めの感想を書いてはいるのですが、それもかなり短いものでしっかりと考えて書いたものではありません。だからこそまた完結作について書く時はきちんと……という気持ちになりきれないところが、なんとなくこの完結作の持つ力なのかな、という気がします。

 作品について感想なりなんなりを書く時、自分の中にあるものを整理することというのも目的の一つです。作品を見て自分の中に生まれたものに、無理やりだったり慎重だったりあえてそぐわないやり方だったり八方手を尽くして言葉というものを当てはめてみて試行錯誤し、とりあえずの形を与え、とりあえず以上のものを探す足がかりにする。その過程でなるべく通りのいいお話に美化してしまわないように気を遣えたりできればさらに万全ですが、同時に整理しようとする中で生まれるだろう整理しきれないもの、整理したくないものに意識を向けるというのもまた目的です。自分は何が引っかかるかを考えることはそのままそれがひっかかる自分はなんなのかを考えることに繋がります。そういったものをそういったもののままで抱えて、折に触れて考えたり突き詰めたりすることは結果的に作品の新しい見方に繋がるからどんどんやっていきたいんですが、なんというか、この完結作って自分にとってそういうことをする気力がほとんど湧かない作品だったんですね。もちろんこれで終わりだからというのもあります、というかそれがほとんどかもしれない。だってどれだけ考えたところでもう作品はすっかり終わってしまっているので、多少見方や視点が変わったところで新しく得るものはほとんどないというか。決して作品自体がつまらないといいたいわけではないんですが。これについては、自分が割りと細々した設定や整合性の追求にあまり盛り上がれないというのもあるかもしれません。とにかく、何かを書こうという気持ちに良くも悪くもならない作品でした。

 それならそれでそれについて書くことこそが必要だと自分でもわかるんですが、“書く気にならないことについて考えて書く”という服を買いに行く服がない問題の解決法ってこれといったものがないから難しいんですよね。最終的に時間に任せてしまいました。それによって抜け落ちたものも多々あります。実際、前回の三作目についての日記は完結作の公開前と比べて熱量なり読解なりがかなり劣っているはずです。それも含めてそういうものなので、ここはもう素直に諦めて今の自分で向き合うしかないです。向き合うというよりはごみの分別のほうが近いですが。

 

 公開までについて。なにぶん公開までの期間がかなり長い上に、直前になってさらにいろいろとあったので公開までのあれこれについて書くというのがかなりごちゃごちゃしてしまうんですが、確か本格的にいろいろ動きだしたのが2017年だったはずです。一番最初のティザービジュアルが出て、三作目のラストの続きを正面から描いている(人物が小さくて分かりづらいですが前作の最後とは逆になっています)というのにいたく感動しました。あのビジュアルは今でも大好きで、というか今作のポスターまわりは全部大好きです。

 そこから更に時間が飛んで2019年の7月に冒頭の上映イベントがあって、これは現地で参加しました。情報が出た時はうわー出たよ同じ作品が好きなら同じ空間で一緒に盛り上がれると思ってるお花畑が考えた“共有”のイベントだよウゲーーーと萎えていたんですが、しかしなにせ七年心の底から待ち続けた作品の冒頭なのでなんだかんだ行きたくなってしまい、向かってる途中で新宿の整理券が配布終了になったので急遽日比谷に向かって無事に整理券を受け取ることができてひと安心。当日傘を忘れたんですが雨が降り出して、近くのセブンイレブンで雨合羽を買ったんですがこれ以降一回も使う機会がなく今も部屋に転がっています。内容については後で言及しますが、この時に公開が2020年だと決まったはずです。あと一年と区切られたことで脳の中がぐるんぐるん回って三作目についてまた考えまくったのもこの頃でした。このちょっと後に特報が出て、6月公開まで決まってますね。そして年末に27日公開というのが出て二作目とそのまま同じ日付になることにエモ散らかしたりしてたんですが、そこからあとは感染症の流行で翌年4月に延期が決まり、10月に22年1月公開と決まるも直前で再延期して九日前に3月8日公開決定、というのが大まかなスケジュールのはず。

 一番やばかったのはもちろん公開日が決定した2月26日でした。これとは別に感染症関連で一旦中止になったライブがあって、その振替公演がちょうどその近辺でしかも前回当たらなかったチケットが当選していた状況だったので、年単位で待ちわびていた出来事が連続で来るとなるとそれはもうパンクするわけです。今思うと微笑ましいエピソードなんですが、混乱のあまりライブ当日入場待機列に並んだ俺が延々と繰り返し聞いていたのは残酷な天使のテーゼでした。本当にバカなんですがこれもまあオンタイムで作品を追いかける醍醐味みたいなものだと思うのでこいつバカだなあと笑ってください。テーゼでいうと2017年に開催されたゴジエヴァ交響楽にも俺は行ったんですが、新劇場版とシンゴジの曲でいろいろ遊びんでるのを楽しみつつ最後いつになるかな~という気持ちでいたら最後の最後にテーゼが始まっていや確かに代表曲ではあるけど新劇場版になってから一回も使われてないし突然1995年に巻き戻って宴会芸やるなよという微妙な気持ちになって拍手してて、なんというか、今から振り返ると作品全体に対する感想として当たらずも遠からずでちょっと変な気持ちになりました。

 話を戻します。一番やばかったのは公開日決定ですが、それまでもOneLastKissの本予告があまりにもよかったり、上映時間が2時間35分と発表されてQの1.5倍????と震え上がったり、CDの情報を見るとトラック2だけ曲名がふせられていてこれ絶対新曲か既存曲のアレンジを宇多田ヒカルが歌うじゃんという微妙なネタバレをほんのり食らったりしながら迎えた公開日当日、映画館に突っ込むと、まあその、流れていたんですね。BeautifulWorldが。いやまあそうだよな、破の時もこんなことあったなという気持ちになって、これもこれで映画館で映画を見るという体験ではあるし、破の時も本編始まったらど忘れしてたから平気でしょ、と思いつつ初日に二回予約していたので体力を心配しながら席について、上映が始まって、作品が終わりました。

 率直な気持ち、というにしてはこうして長い文章にしている時点でもとからかけ離れてしまっているんですが、見た直後の気持ちは今でもはっきり残っていて、“あ、そっち行くんだ……”というものでした。落胆でも失望でもなくて、酔いが覚めつつ納得するというのが適切な気持ちです。進行方向については肩透かしなんですけど、そういう進行方向のものとして考えると納得できるし腑に落ちる、けれど腑に落ちたかったかというとそうではないし、だけど終わり方としては妥当だし、という。1億点かマイナス1億点、高低どちらにせよ他にないものを期待したら普通に100点満点のなかで得点として成立する点数で出てきたという具合で、じゃあそれが悪いことかというとなんにも悪いものではないんだけど。理不尽ではないんですよね。前の日記でも書いた通り、あの続きとしてこうなるということ自体は全然飲み込めるんです。ただまあ飲み込めることと好きであること好きになれること素晴らしいと感じることは別で、かつそういったことが全くないかというとそうでもない。つまりものすごく普通だった。そういうことだと思います。以下、パートごとに内容にもうちょっと触れます。

 

 アバン1。ここに関しては本当に文句なし。初めて見たのが映画館ではなくイベントだったのでそちらの感想になってしまうんですが、マリの真実一路のマーチが東宝のロゴと一緒に流れた時に良すぎて嗚咽しちゃんたんですよね。いややってることは前二作とおんなじで、最初に何かしらの戦闘があってそこにマリがいて歌っていて、なんですけど、破で発明されたこの始まり方が強すぎて最後までこれになるというのが感慨深かったのと、単純に歌声が心を動かすものとだったのとでマジで声を上げて泣いてしまって慌てて画面に集中したのを覚えています。ネルフエヴァ陽電子砲という序のやり方で攻撃してくるのに対してヴィレ側は義手のエヴァが急造の槍でギリギリ対応するという破のやり方で応戦するのも完結作の幕開けにふさわしかったし、劇伴もあまりエヴァでは聞かないものからいかにも鷺巣詩郎な大げさ曲を経ておなじみEM20のアレンジで締めるというのも最強で、イベント後はずっと興奮しっぱなしでした。最高傑作になるよこれって思っていたんです。思っていたんですよね……。そこからアバン2で三人の放浪もまあ見たかったもので、Qで出た赤く染まった世界という絵面は本当にいい。ずっとこれだけ見てたいくらいです。

 

 Aパート。最初の“あ、そっち行くんだ……”はここでした。トウジとケンスケが生きてること自体は別に落胆しないというか、まあ確かにご都合主義ではあるんですけど、そこでひっかかるならそもそも使徒封印用呪詛文様とかある時点で引っかかるべきなので。むしろこれについては、いつ頃だったかは忘れたもののカラー2号機さんが設定資料の写真の表紙をSNSにアップロードした時に画像をいじると表紙が透けて中身が見えてしまいそこにしっかりトウジとケンスケがいたのですぐさまその画像が消えた件を思い出してあれってマジのうっかりだったんだ……という気持ちのほうが大きかったです。で、村ですね。村なんですよね……。こう、お話としてこうなること自体が嫌とかではないんですよ。打ちのめされた主人公が放浪の先でささやかな安息の地にたどり着くというのはよくありますし。ただまあなんというか、そこが“古き良き昭和”だったのがうーん……だったんですね。なんか文学史でやった気がする、とぱっと思い浮かんだのは武者小路実篤新しき村なんですがこれは多分関係ない気がします。なんでしょう、“古き良き昭和”自体はそういうものなんですが、それが放浪の先でたどり着くささやかな安息の地として出てくることがうーん…………、だったんですよね。繰り返し見ると言うほど安息の地ではないというか、むしろ安息の地ではあるけれど自分はそこで安らぐのではなくそこを離れてやるべきことがあるというのが村でのシンジくんのお話なのですけど、それでもうーん……なんですよね。あの生活が住んでいる人間の労苦によって成り立っている、荒廃した世界における希望として意図して実現されているものであって自然とそういうものとしてなりたっているわけではない、ということもわかるんですが、その意図して実現された希望が“古き良き昭和”なのがノスタルジックで、嫌というかそれを是とするんだ……みたいな。流石に農村系の新興宗教とまではいいませんが、別レイは手に汗かいて自然に触れてデジタルに還元できないむき出しの命に触れて自我を獲得!をひねらずまっすぐに突き進んでいくのでお、おう……ってなるというか。こう、エヴァに乗る以外の生き方を知ることで新しい自分を見つけ、それを受け入れていくという構図自体は全然間違ってないと思うし、お話としても別レイにかぎらず今作ってそういう話なので、そうなること自体は納得できるんです。意図は受け入れられるんですが、意図の表象として選ばれたものがあんまり納得できないというかうーん……そっちかぁ……となる。もしかしたら単に世代的なものかもしれなくて、俺は平成生まれなので昭和になんの感慨もないから微妙な感じになるだけで、ここで描かれる風景が平成初期のものだったらもしかするとめちゃくちゃエモくなってしまったかもしれません。しれませんが、しかし実際はそうならなくて、このあたりが見ていて一番うーん……となったところです。ただ放浪してるシンジとか、旧ネルフ施設跡でのくだりとかは画面がめちゃくちゃよくて好きでもあるので、本当になんともいい難い感じでした。

 トウジやケンスケについてはいい感じに対照的で、守ってあげる・優しくしてあげることを第一にするトウジ(これはサクラもそうですね)と最低限の安全を保った後はそっとしておいてあげるケンスケでどちらもシンジにとって必要な友人であることがわかりやすくて、わかりやすいぶんやっぱり序からの描写不足はあります。特にケンスケは前も書きましたが序だけだと変わり身の早い腰巾着に見えてしまいがちなんですよね。それにもかかわらず納得してしまうのはひとえに新世紀からの年月で醸成されたイメージのおかげなわけで、いやこれってどうなの?ずるくない?と思わなくもないです。ただここの、シンジ・トウジ・ケンスケでやってることってほぼそのまんま第四話のなんですね。というかQ-シン前半がほぼそのまま第参話-第四話の繰り返しになっている。もともと新劇場版が乗りたくない→でも乗る→いいことある→また乗る→嫌なことが起きる→乗りたくない→でも乗る→いいことがあるor嫌なことが、を延々繰り返す話なんですが、ここに来てその一番最初である雨逃げ出した後を持ってくるのは確かに感慨深くはあるんです。新世紀で唯一総監督が脚本に名前を連ねていなかった回でもあるし。ケンスケキャンプ2021として見ると悪いものではないんです。シンジが持ち直した後、ケンスケと一緒に外でいろいろやるシーンは村よりは抵抗感なく見れて、封印柱が刺さってるところとかは見たかったビジュアルだなという感じでした。

 村の描き方とは別にもう一つ引っかかったところと言えば加持リョウジくんで、これも意図は納得できるけど……というひっかかりです。ミサトと加持の顛末はまあ今やるにあたって加持を素直にかっこいい人間として描くのは無理があるしこれしかできないだろうという感じなんですが、そういう背景を経てそこにいる子供に故人と全く同じ名前をつけるのってどうなの?という疑問がどうしてもあります。別レイの名付けと並走してるから余計に際立って見えてしまうんですね。だって言ってしまえばゲンドウですらそこの区別はつけていて、複製体であっても別人だからと違う名前をつけているのに、生殖を経た存在に対して同じ名前をつけられると名付け親の神経を疑ってしまう。確かに別レイも別レイの名前が思い浮かばないという結末にはなっていますが、あれは別の可能性を辿った複製体という“同じだけど違う”、“違うけど同じ”存在だからこそぎりぎりで成り立つ答えなわけです。けれど加持リョウジくんは血こそ繋がってるものの血が繋がってるだけの全く別の人間であるわけで、加持という存在の別の可能性でもなんでもないわけなんですね。そういう存在に亡くなった相手と同じ名前を親が付けるというのは、ものすごく身勝手なことだと思いませんか。今作について、相手を見つけて生殖し大人になれみたいなメッセージが強くてどうのという意見を見ましたし、そういう気配がないとは言い切れないんですが、それをいいものとして信じてやりたくてやっているかというとそうでもなさそうと俺が思うのはこのあたりになります。そこら辺を真面目に考えてたらたぶんこういう名付けはしないはずで、どちらかというと人物がそういう経過をたどると見ている人間が成長したと感じてお話の終わりだと認識できるからそうした、というように感じます。こっちのほうが問題は根深くて、見る側も作る側も深く考えずそれを“お話の結び目”として認識してしまうのは決して好ましいとはいえないでしょう。でも今作ってだいたいこういう感じなんですよね。それがうまくいってるところもあれば全然ダメなところもあって、加持リョウジくんまわり、ミサトさん周りはあまりうまくいっていない。カヲルくん・アスカまわりは納得がいく。そんなこんなでこの作品に関する微妙さというか、抵抗感のおおよそがAパートにあったので、初見の時は結構ここでグラグラしました。逆にここ以降は、“そっち”に行ったものとして見られるようになったのでここほど動揺はしなかった気がします。

 

 Bパート。ここらへんはさっきも書いた通り割りと落ち着いて見れたというか、エバンゲリオン見てるなーという気分になれたというか。めちゃくちゃ事情説明でもありますが。ミサトの背景をAパートのケンスケから引き続きリツコが全部喋ってくれますが、加持リョウジくんのこと以外は前作単独でも十分理解できるようになっているので冗長なんですよね。今作はとにかく全部説明してくれるのでありがたいといえばありがたいんですが、ある意味で観客として信頼されていないわけでもあって、ここらへんのバランスにもしかしたら前作に対して単純に画面や台詞を追えてないだけなのにやたらと難解だとか意味不明だとか騒ぎまくった方々の大声が響いていたとしたら嫌だなと思ってしまうんですが、確実に個人的な思い込みにすぎないのであくまで思い込みということにしておきます。シンジとアスカの会話についてもまあそりゃそうだよなということを改めて言葉にしているだけなんですが、このあたり、なんというかマリはいい人だなというか。アスカに対してもシンジに対してもきちんと心のクッションを敷いてあげていて、飄々としている人みたいな空気を出してる時は特にどうこう思わないんですけどこういうちょっとしたところはなるほどこの二人からある程度信頼を得られる人ではあるよねという納得があります。髪切ってるところとかはまたなんか適当こいてるなーという感じにはなるんですが。あとびっくりしたのがここでアイキャッチが挟まることで、なんというか全然キレてないタイミングですごい義務アイキャッチで、どうしても旧劇場版の最高のタイミングでのアイキャッチと比較してしまうところではあります。サブタイもそんなにひねってないし。

 

Cパートは全般的によかったというか、むしろ素直に楽しめたのはここくらいかもしれません。ヴンダーが大気圏突入するあたりは映像としても素直に臨場感と迫力があったし、その後の戦闘もまあ楽しかったし。あとここのヤマト作戦とか言い出したあたりでもしかして今作あんまり力んで見るものではないっぽい?とちょっと笑えたのもあります。いやまあ振り返りだからわかることですが、当時の自分はそりゃまあ力んでいたよなと。力むなという方が無理なんですけど。降下してからの戦闘も概ね満足で、新2の装備はもうちょっとじっくり使ってほしかったとかNHGに対してミサトがあまりに無策過ぎるとかいくらなんでも裏コード999あっさりしすぎだろとかはあるんですがもうそれはそういうものなので……。ヴンダーが貫かれた瞬間の絶望感はかなり強くて、そもそもこの戦いってネルフからするとヴィレが突っ込んできた時点でほぼ勝ててしまう戦いなんですよね。それでもやらなきゃいけないのがヴィレだし、実際勝てない戦いなので普通に勝てないだけというのは辛いけれど妥当ではあります。戦闘以外だとやっぱり黒き月をどうこうしてわけのわからない事態になっていくところは楽しいんですよね。そもそも黒き月が新劇場版においてなんなのか一切出ないままで本来の用途とは異なる使い方をされたりとか、心底かっこいい第13号機の貫手、めちゃくちゃいい劇伴で乗っ取られていくヴンダーのあたりは前半の抵抗感もだいぶ薄れて素直に盛り上がれました。そこからのゲンドウの説明パートはまあ説明だな~~~~、みたいな。

 甲板の乗る乗らない騒ぎについては本当にミサトさんの演技が心に迫ってきて、もちろん再三書いてきたようにQ見てたらこういう考えでここにいるのはわかるんですけど、その上でどうするのか、という場面として本当に良かった。ミサトさんはこういう人である、という中で一番いい部分が出ていた。サクラやミドリもまあいい役どころではあるんですけど、逆にそれ以外というか旧ネルフのオペレーターが割を食ってしまったなという部分はあります。これだから若い男はbotになってしまったマヤさんはまだいい方で、本予告でグータッチしてまさかこの二人に最後の最後で見せ場が?と思わせてくれたシゲルとマコトがマジでグータッチしただけだったのはまあ確かに今更この人達でドラマやられてもな……って納得もするんですけど、やっぱりなんかほしかったですよね。この下りで流れている劇伴が序で乗れハラされている時のアレンジなのも完結作の見せ場としての情感をいい感じに出してくれて、I'll go on lovin' someone elseという曲名が本当に答えだなあという感じです。何よりシンジを送り出すときのやり取りが胸に来て、ミサトとシンジが素顔で向き合うのは破でシンジが僕はもう誰とも笑えませんと告げた時以来です。加持リョウジについて、僕は好きだよとシンジは笑いかけます。行ってきますと自分から告げたシンジを、ミサトは行ってらっしゃいと送り出します。行きなさいシンジくんという叫びは、あなた自身の願いのためにという言葉は、結局のところミサトが自分の後ろめたさに後押しされていたからこそのものでした。それがこういう形で変化して繰り返されたのはものすごくよかったし、最終的に放り投げられがちだったシンジとミサトの間柄についての落とし所としてこれ以上のものは望めないでしょう。ここは素直によかったところです。

 

 で、Dパートなんですが、こう、ここがまた引っかかるというかなんというか、身も蓋もないことをいうと全然真新しくなかった。Cパートでいい意味でわけのわからない謎概念謎現象謎儀式が起きて、シンジのお話がひとつ区切りをつけて前を向いて、画面もいい感じに炸裂してきて、というのを経てたどり着くのがゲンドウなのは妥当なんですけど、そのゲンドウがなんというか、“あ、そっち行くんだ……”だったんですね。確かに新世紀・漫画版・旧劇場版通してシンジとゲンドウが正面切って対峙するというのはやっていないことではあるんですけどやっておもしろかったかというとそんなことはなくて、こうなるのはわかるしやらなきゃいけないんだけどこれかあ……って気持ちになってしまったんですよね。その一つに碇ゲンドウという人間が思ったほどこれまでと代り映えしないというか、むしろ新世紀のときよりも全然話の通じる人間だったのがあります。序から少しずつ 少しずつ違う方向に進んでいって、状況としては前向きではないにしても、人物の経路や行き先で言うなら確かに前はいけなかった場所に行けるかもしれない、違う景色が見られるかもしれない、という期待の先にさほど方向性が変わらないまま話が通じやすくなったゲンドウを置かれるとじゃあ今までの変化と前進と繰り返しってなんだったの?となってしまう。結局妻に先立たれてもう一度会うために世界を巻き込んだ人、というのはなんにも変わっていないし、この路線ならむしろ漫画版の積極的にシンジを憎んでいるゲンドウのほうが情けない悪役としてまだ映えたような気がします。画面にしてもそれまでのわけのわからなさからかなり実直な旧劇場版の参照になってしまって、マリの台詞で示唆されているように外面が第26話で中身が第弐拾伍話・最終話(碇ゲンドウの場合)というのを序破Qを締めくくるものとして見せられても、なんというか、まあ、そうですね……という気持ち以上のものにはならなかった。ゲンドウの独白も弐拾伍話でやりそうな感じかつ真新しくない、碇ゲンドウという人間を今語り直すにしては別に新しくもなければひねりもないというもので、ここでものすごい腑に落とされてしまうんですよね。Aパートほど抵抗感の強いものではないんですが、結局これやるんだ、という気持ちは割りと強かったです。第26話との違いとしてヴィレのメンバーが自由に行動できているという点があって、そこでもいろいろやっているんですが、ここもなんというか……。これに関しては良し悪しというよりは好みかもしれないんですが、結局ミサトが突っ込んで自己犠牲してしまうのってものすごくそれでいいの?と疑問でした。視聴者にとって加持リョウジくんは親が両方命を犠牲にした上にそのことを知らされていない人になってしまうし、そもそも葛城ミサト自体が普段は自分たちを放置していたのに最後の最後で自分を守ってくれた父親、という存在に囚われて生きていた人なわけです。確かに加持リョウジはミサトが親だと知らされていない以上人生を呪われることはないかもしれませんが、見ている人間からするとミサトは結局父親と似たようなことをしていしまっていて、それがミサトという人間の物悲しい業だとする向きもわからなくはない、わからなくはないんですが、あれだけシンジをしっかり送り出せた人間の末路としてこれはちょっとなあ、と思ってしまいました。ファザコンかつ加持への思慕から似たような行動をしてしまう、と捉えることもできなくはないんですが、29歳のミサトならともかくこのミサトは流石にそこは通過してると思いたいですし……。名付けの件も相まって、確かにこういう構図にすると一人の人物の帰結として筋は通りますが、この筋は本当に通すべき筋だったかというと俺はそうは思えなかったんですね。死ななくても良かったんじゃないかなあ。こういう自己犠牲でドラマを作りがちなのは癖というか、最近公開された映画についての本に脚本での自己犠牲についての言及があったのでそういうものだとは思うんですが。

 その後の夢のスキマに合わせてゲンドウとお別れしてからも終わる世界2021は続いて、ここについてはそこそこ良かったです。流石に第26話の海岸が出てきたのはかなりびっくりしたし感情を引きずられましたけど、全体的に式波アスカの落とし所としては順当なものですし、結局は自分でしかないパペットから自分以外がいるきぐるみへ、という意味のずらし方もよかったです。ただ一個、海岸でのアスカはどうも式波でも惣流でもない、“エヴァンゲリオンのアスカ”全体に向けての語りかけっぽくて(公開後この場面のアスカが商品化される時は絶対に『アスカ・ラングレー』名義)、こういうシーンをもっと見たかったのが正直なところです。あとここで総体としてのアスカに語りかけられても結局その先の未来が描かれるのは式波で、やや中途半端な感も否めません。この新世紀・旧劇場版への言及のバランスはあくまで新劇場版をベースとしているのが良し悪しで、終盤のスタジオに零号機改のスーツがあるのはいいんですけど、それならそれで槍で貫く時新劇場版だけじゃなくて新世紀含めて全部のエヴァを貫いたほうがさらば全てのエヴァンゲリオンに沿ってるのではとつい思ってしまうんですよね。もちろんそうすると漫画版やゲームやメディアミックスの機体はどうするんだということになってしまいかねないのでそれなら新劇場版だけという区切りを設けることは理解できるんですが、せっかく最後ならそこらへん取っ払って量産機も甲号機乙号機もその他エヴァも全部まとめて貫いたほうが絶対に良かったんですけど、まあ難しいですよね。やってほしかったけど。

 カヲルくんの落とし所については全く引っかかるところがありませんでした。誰かを幸せにしようとしていた人がそのことによって自分を幸せにしようとしていたというのはありがちな構図で、どんな人間にもある程度ある部分なのでどういう人物に対しても適用できてしまうものではあるんですが、カヲルくんの場合は違和感なくうまくいっていたと思います。涙は自分しか救えないから、僕が泣いても他の誰も救えない、とシンジは自分が泣かない理由を説明しますが、まず自分を救うこともまた大切なことの一つです。シンジに手を差し伸べられて涙するカヲルは、ここでようやくその最初の一歩、自分を救うということができたのでしょう。救う-救われるといった関係ではないシンジとカヲルの兆しが見られたこと、何より新世紀エヴァンゲリオン最終話の英題である“Take care of yourself”そのものに渚カヲルがようやくたどり着いたのは、長い時間をかけたからこそ納得できる結び方でした。渚司令とかは流石に説明不足だと思うけど。

 そこからの綾波に関しては村でやったことの復習なので復習なんですが、ここで第26話の映像をそのまま持ってきてさらに新劇場版をつなげてくるところはまあ流石にどうやっても気持ちがこみあげてきてしまいます。今作をものすごく雑にまとめると、綺麗に終わるためにあらゆる手腕を駆使して綺麗に終わったと感じられる型に全てを当てはめていて当てはまり方に良し悪しはあれど当てはめ自体はやれているので綺麗に終わることはどうやってもできている作品、となります。特にこの場面なんか剛腕も剛腕なんですが、剛腕だけあって流石に心が持っていかれました。ただその感慨をネオン・ジェネシスの一言が粉砕するんですが。え、今言う?いや確かにタイトル回収としては盛り上がるけどでも今か?(序数)・インパクト→アナザー・インパクト→アディショナル・インパクト→ネオン・ジェネシスっていう並びなのもわかるけどそれ本当に今かなあ?もう新世紀エヴァンゲリオンでもヱヴァンゲリヲン新劇場版でもなくなっている今拾う???みたいな混乱といやー後付もここまでくれば立派だなーーーという気持ちがごちゃまぜになって、悪いわけじゃないしシーンとしては好きなんですけど。

 VOYAGERについては俺がこの曲を知ったのがミカるんXだったので、流れ始めてからしばらくして(…………ミカるんX!!!!)と思い当たって盛り上がるというのがありました。ネオン・ジェネシスについてはもう先に書いてしまったんですが、やっぱり新劇場版の機体しか貫かないのはやっぱり中途半端なんですけど、第13号機の腕の使い方は手の使い方のお話でもあるこの作品でとてもよかったと思いますし、さようなら、全てのエヴァンゲリオンの言葉も最後を飾るにふさわしいものでした。ただやっぱりどうしてもやってることは第26話の幕引きとかなり被ってしまうので、結局これをやるのねという気持ちはどうしても残ってました。それに、最後に既存のエモい曲を流していい感じに締めるのはどうしたって破の翼をくださいを連想してしまうわけで、もちろんそれも“繰り返し”なのでしょうけど、前もやったよなこれという気持ちもあり。言ってしまえば浜辺だって素材に解体されるシンジくんだって前にやったことで、もちろん前にやったことだからといって決して前と同じになるわけではないんですが、でもね……。

 Dパートが特にそうなんですけど、自分が新劇場版に期待していたことって新しさだったんです。前にやったことだけど前とは異なる結果になる繰り返しという営みを経て、少しずつ 少しずつ前とは違う方向へとずれていって、以前はいけなかった場所にたどりついて、その先を見せてほしかった。それ自体は遂げられたと思うんですけど、その先と言うには思ったより新しくなりきらなかったというのが率直な実感でした。確かに前はできなかったことをしているし、それにこれまでの変化が寄与していないわけじゃないんだけど、それこそゲンドウのように変わっていはいるけど新しいわけじゃない変化もそこかしこにある。言ってしまえばあの海岸の後を見たかったんですが、結局それはかつての結末をなぞり変えた先のほんのわずかな時間でしかなかった。じゃあこれが不当かというと、決してそんなことはないわけです。Qがものすごく入り組んだ第弐拾四話の再構築だったのだからそれを受けた今作が第弐拾伍話・最終話・第25話・第26話の再構築になるのは当然ですし、そのまま繰り返すのではなく変化して確かに新しい方向に向かってはいるわけです。そもそも新世紀エヴァンゲリオンのリビルドとして始まった作品なんだから、そういう終りを迎えるのは適切ですし、しっかりとやるべきことをやったと言っても差し支えないとも思います。でもやっぱり、俺としては思ったより無難で、なんでしょうね、結局なんだかんだで新世紀エヴァンゲリオンを見せられたなという気持ちになってしまったんですよね。でもそれって妥当じゃないですか。いっそ一概に否定しきれるものであればよかったし、実際一概に否定できるところも多々あるんですが、納得できる・好めるところもそこそこあるからこそう、うーーーん……という気持ちが一層強くなってしまって、見終わってからしばらくうなり続けていました。

 鑑賞後のこうした気持ちが複数回見ても変わらなかったのも大きいです。それこそQなんかは見る度に新しく噛み砕けてどんどん自分の中で豊かになっていったんですが、今作はまあそうだよなという気持ちからほぼ動かなかった。三回目くらいでシンジくんが素材になっていくシーンで確かにこれは絵と声での集まりで線と音と時間が生んだ錯覚でしかないけどそれでも生きてるんだよなと感傷的になりもしたんですが、それは別に作品からもらったものではなくてこっちが勝手に連想した事柄で盛り上がっただけなので無関係ですし、何より綺麗さっぱり終わられてしまったので、こっちとしてもじゃあこれで終わりなのね、以上のものがあんまり出てこなくなりました。終劇といわれればそれが終劇なので。

 

 VOYAGERついでに音楽について。新劇場版で初めて過剰だな、と思ったくらい曲が気になりました。冒頭とかDパートはいいんですけど、村がとにかく過剰でもう少しボーカル抜いてもよくない?と感じました。おまけにいい感じの曲に合わせて点描をつないで時間経過する、みたいなシーンがABパートで三回あるし全部ボーカル曲だからなおさらくどく感じてしまって、サントラで曲そのものとして聞くといい感じなんですけど劇伴としてはうるさいなというのが第一印象でした。もちろんよかったところもあって、特に初号機覚醒のpillars of faithはカラー十周年記念展以来五年ぶりに聞けて嬉しかったですし、アディショナル発動時のWhat ifはまさに鷺巣詩郎炸裂という感じで良かったし、A4のいろんなアレンジが聞けたのも嬉しかった。ただ、全体的には散漫な感じが拭えませんでした。サントラで聞くといい曲なのは間違いないんですけど、やっぱりボーカル曲もうちょっと減らしたほうが引き締まったと思います。OneLastKissと続くBeautifulWorldはめちゃめちゃよくて折に触れて聞き返しますが、作品の印象はこの二曲にだいぶ助けられてますよね。Qの時に桜流しに救われてるみたいな発言をたまに見かけましたが、それを言うなら新劇場版自体が宇多田ヒカルにおんぶにだっこです。

 

 とまあそんな感じで、見終わって公開が終了するまでの間はだいぶうーーん……という気持ちを抱えていて、なにせ十七年心の結構な部分を割いて追いかけ続けた作品が完結したこと、それが思ったよりも自分にとって微妙だったことというのは人生で初めてだったので扱いに本当に困っていました。絶賛する気には間違いなくならないけど、全否定するほどのものでもない。自分にとって本当に普通の終わり方をしたことを結構持て余していたんですが、今はそれすらもだいぶ薄れてきています。二作目についての日記に“ここでの整理は思い入れや好意的に捉えた部分をしっかりそういうものとして分離させることも含みます。自分と作品との関係とはほかに代えがたいたったひとつきりのものですが、それと同じくらい、無数に転がってるありふれた取るに足らないものでもあります。思い入れを剥がすことで見えてくるものもあるでしょうし、美化を素直に美化と認めて取り去ることでわかる形もあるはずです。”なんて御大層に書きましたが、なんてことはない、整理するまでもなくぼーっとしている間に何もせずとも思い入れもなくなり、美化も風化して今更これといって別にどうも、というところまで来ています。最近公開されたスタッフの共通する映画にしても、ある人物の扱いがいや今これはないよなあという点以外はこの人たちがこれを作ったらこうなるよなという感想にとどまって、むしろこのほうがある意味健全なのかもしれません。余計な期待をせず、過度に思い入れず、痘痕もえくぼにせずに抵抗感のあるところはきちんとひっかかり、楽しめるところは楽しむ。来年に公開を控えている作品もたぶんそんな感じで、ほどほどに楽しんで、ほどほどに受け入れられなくなりそうです。

 

 なんというか、好きだったものに対して気持ちの精算をしよう、それをあまりかっこつけて美化して物語仕立てにしないようにしよう、それで関係の区切りの一つにできればいいなという気持ちで始めたふりかえりだったんですが、普通に風化して書く気がなくなっていくというある意味当たり前のところに落ち着きました。別に嫌いになったとかでもなくただ薄れていく。一つ挙げるとすれば、今自分が好きであるものごとに関しても同じ道をたどるのではないかということは怖いです。ただ、同時に熱狂すること・のめりこむことは無条件で是とされるべきではないよねとも思っていて、自分がファンとして問題がある人格をしていることをどうやってうまく扱えばいいのか、という段階だと自分では感じています。それこそケンスケの言うように“心配のし過ぎは互いによくない”ですし、なにかを心の支えそのものにするのではなく、何かを心の支えの支えに、位の距離感で信じることが最も適切な態度ではないか、とも。ただもちろん、そもそも適切な態度の適切さってなんなんだよということもついてくるわけですが。再構築の作品について求めるものも、これはものすごい暴論なんですが、自分よりふた周りも上の世代の作るものにあまり新しさを求め過ぎるのも筋違いだったのでは、というスタンスになっています。求めるのはいいけれど求め過ぎるのは違うというごく当たり前の結論です。

 何かを好きになることは、こうしたキモくて身勝手でわがままで短気な自分に何度も直面することでもあるんですが、そんなこと何かをきっかけにせずに自分でしっかりけりをつけてから何かを好きになるべきだとも思います。こうしたことに考えが巡るようになったきっかけとしては間違いなくこの作品がこういう終わり方をしたことがあるので、その点については素直に感謝しています。十七年間かけて得たものとして、これからもこうしたことについては考えざるを得ないし、考え続けていきたいです。

 

 

 最後に一つだけ。作中で“さようならはまた会うためのおまじない”という台詞がありますが、あれは明確な誤りです。また会うためのおまじないとしての言葉には、「またね」という言葉があります。もちろん言葉というものは常に文字通りの意味を持つものではありません。それこそ二度と再会が叶わないだろう相手に対してなげかけられる「またね」は、意味としては「さようなら」になりますし、別れに際してあえて再会を約す言葉を選ぶことはまさしく“おまじない”でしょう。もちろん逆もありえる話です。ただ、素直に再会を願うのであれば、ほとんどの場合適切なのは「またね」ではないでしょうか。なんとなく言葉選びで納得してしまいそうになりますし、絶対にそうとも限りませんが、それでもやっぱり基本的にさようならはさようならで、またねはまたねだと思うんですよね。

 というわけで荷を降ろすためというよりは荷が降りていたことを認めるための文章になりましたが、一応これでこの作品に関する振り返りは終わりにします。お付き合いいただきありがとうございました。またね。

121117

 前回の日記でなるべく思い入れを剥がすことで見えてくるものがあるだろうしそうできたらいいしそうできる人間でありたいと書いたのですが、そうなると一番難しいのが三作目です。というのも単純にこの作品のことを考えていた時間というのが一番長いわけで、一作目から二作目までの二年弱、二作目から三作目までのおよそ三年と半年に比べて三作目から最終作までは八年と少しもあります。その間、あの完璧な最後の先に何があるのかというのをずっとずっと考えてましたし、これは一体なんなんだろうかということもずっとずっと考えていました。ただ先に言ってしまうと、そうした時間を経ていざ直面した完結作が自分が期待していたような圧倒的なものではなかったんですね。それについて色々と書くのは次の回に譲りますが、少なくとも八年と少しの先にあるものとしては、うーん……まあ……そっか……というものになってしまった。そうなったときに問われるもののひとつに、自分の期待が正当なものだったかどうかは含まれると言っていいでしょう。

 もちろん期待は期待なので、正当でないものもあっていい。むしろ得てして期待というものは理不尽なものです。そして理不尽だからだめなのではなく、理不尽ではあると自覚した上でそれでもある一定の方向に向かって抱くものが期待のはずです。だからそれが破れた時に、なるほどこれは理不尽で身勝手なものだった、こっちが期待の角度を見誤っていたけれど見誤るだけのものを見せてくれてありがとうと素直に言える部分もあれば、身勝手ではあるけどやっぱりここまでを踏まえてこれからを考えたらこうなるはずだったのにという部分もあるでしょう。そこで過度に萎縮せず、かといって逆上せずに済むにはどうすればいいのか。そのために自分ができることとして前々回と前回の日記があったわけですが、いざここに差し掛かってくるとどうしても迷いが出てしまいます。繰り返しの恨み言になりますが、この作品がもうちょっとちゃんと受け止められていたら完結作はもうちょっとなんとかなったんじゃないかと思ってしまうんですね。それと同じくらいこの続きとしてああなるのも納得はできるわけですが。そういった気持ちも含めて整理するための行いなので整理できたらいいですね、というわけで三作目です。

 

 

 公開前は極端に情報が出ていなかった印象があります。もちろん作品の性質上そうなったのもあるでしょうが(何を出してもネタバレになる)、俺も前作から三年と半年経って結構環境が変わっていました。その過程でまた別の作品に出会ったり、考え方も変わったりしたので、このシリーズのように好きには好きだけどいつやるかわからないという状況だと関心の向け方が割りと穏やかなものになっていったんですね。実際に情報が出始めたのが二〇一二年の七月とかだったんですが、その時期になるまで自分から積極的に情報収集はしてなかった記憶があります。EXTRAの冊子もなかったし、公開日が発表されたEXTRA08は建物の壁面で上映ということでそういうファンが一同に介して作品を楽しむみたいな場は苦手だったし。

 ただ公開日が決まって本予告が公開されると流石に盛り上がってきて、バルト9での最速上映のチケットを大学の講義中にこっそり買いに行ったりもしました。かなり早めにLoppiの前に陣取ったら後から同じ目的と思しき人が来たものの無事に開始時刻と同時にアクセスができて、初回はおそらく埋まってるだろうからと四時頃の回を取ったはずです(もしかしたら二時かもしれない)。高校の同期と三人で観に行ったのですが、帰りの歌舞伎町でキャッチの人に「お兄さんエヴァっすか?」と声がけされていやわかってるなら声かけなくてよくない?見た後になにかする気分になれてるわけなくない?となりもしたんですが、あれはあれで思い出です。ただ、初日初回だからといって深夜だと俺はどうしても眠気とかのほうが勝ってしまうのでよくないということがわかって、この後に好きな作品を見る時は深夜最速上映は取らないようになりました。寝て起きてすっきりした頭で見るのが一番いいよね。

 見終わった後にぼんやりと思ったのはめちゃくちゃ豪華でREBIRTHみたいな弐拾四話だったということで、午前四時頃の頭であれだけの密度と速度の情報を処理するのは流石に無理があったんですね。ただ新しくあったのは確かで、その後何回か見ていくうちにめちゃくちゃ好きになっていきました。わかりやすいところでいうとデザイン面で、これまでの二作はどれだけ画面が新しくなっても機体やスーツは前と(ほぼ)同じものだったわけです。そこがなんだかんだリメイク感というか既視感を与えていたんですが、今作はそこが全部刷新された。リメイクないしアレンジに求めている、見たことあるものの見たことない姿が全面に広がっていて、やっと始まったという感慨がありました。一方でヴンダー内はそうでもないというか、ミサトさんの格好(特に帽子)は絶対トップ2のフラタニティだろとか思ったりもしましたが。

 機体に関してはお腹の蛇腹になってる装甲の処理がかなりかっこよくて、線としてはこれまでの逆三角形なんですが形としてはちゃんと筒状になっているのがめちゃくちゃ好みです。新劇場版はTVシリーズで散々やられたようにかっこよさ重視で機体の胴体を細くしない傾向があったんですが、そのかっこよさのニュアンスを拾いつつ細くしすぎないシルエットのまま曲線でちょっとぬるっとさせることで新型感もある、という塩梅がいい。第13号機も初めて腕が展開するのを見た時はそうはならんやろ……と若干思いましたが、慣れてくると胴体の感じとかも含めてまあかっこいいんですよね。今作で出てくる機体が一見前の機体と同じに見えるけど別物ですよ、というコンセプトで統一されているのも本格的に変わってここから更に新しくなっていく気配を感じさせてくれました。

 画面もレイアウトなり背景美術なり含めて全部のカットがよくて、特に廃墟になった旧本部とコア化した世界のビジュアルはこういうのが見たかった。しかもそのビジュアルが演出のために全力で使われている。例えば本部、謎の逆三角形の中に半壊した本部ピラミッドがあるのってジオフロントどうなったの?という疑問も中盤でなるほど柱に支えられているのねと納得できたかと思いきや最終的にはなんか浮遊してるっぽいし、そもそも位置関係が整理できないし、と混乱するんですが、実は前からネルフ本部ってどんな場所があるかはわかるんですがそれが施設のどこにあってどうつながっているかの内部構造ってほとんどわからない施設なんですよね。今作で表に出ただけで実は前からそうだった、という要素も結構あります。それからフォースが発動した時の同心円を経て、最後のカットが完璧でした。あれで終わってもいいと思えたし、あれで終わってもよかったと今でも思います。

 お話については前作で拾九話までと弐拾弐話・弐拾参話までを拾ったのでやることは弐拾四話だし実際に弐拾四話をやりつつ前作の“インパクトを起こして状況をいい方向に変える”をCAN NOT REDOしているんですが、前作までが大枠はそのまま新しい方向にずれていったのに対して今作は大枠は新しいけど要素要素に弐拾四話が埋まってる形になっていて、ここってあそこをこうひねってこうなっているのねと逆算させられる形式です。もちろんカヲルくんが好きというのもあるんですが、その弐拾四話でありながら弐拾四話ではない、というのを解きほぐしていくのがまず楽しい。ただそれ以上に自分の価値観とだいぶ近かったというか、ものすごくざっくりいうと“よかれと思ってやったことで最悪の事態は起きるし、それを挽回しようとしてもうまくはいかない。それでも横で手を差し伸べて助けてくれる人もいるけれど、その人も自分のせいでいなくなってしまう。そうやって底の底にたどり着いても、救われないままでも、救われないまま蹴飛ばしたり手を引いてくれる人がいることもあって、どこへ向かうかはわからないけれど歩き出せることもある”という顛末に、なにか足し引きする必要を特に感じません。所々で気になるところもありはするんですが、でも、こういうお話である以上、どうしても自分はうなずいてしまいます。あえて大きいことを言うと、生きるというのはどうあってもそういうものだと思っているので。

 なので、歪かもしれないけれど再構築の先にこういうところに作品が来てくれたことに対して感嘆したし、そしてその場所がものすごく自分にとって身近というか体感できる場所だったのも受け入れやすさの要因でした。だったんですが、まあ、公開後どういう扱われ方をしたかは、知ってる人は知っていることなのであんまり述べようとは思いません。そもそも画面や台詞をろくに理解できていないまま不理解への居心地悪さから衝動的に繰り出される見下しや不平も、画面や台詞を生半可に理解したつもりになって内容を咀嚼せず雰囲気だけで知っているものに接続して冷静さや視野の広さを示すことが目的になっている保身も、話の展開が前作から想像されうるものと違うという前作前々作をしっかり噛み砕けていないからこその見当外れな不満の反動として繰り広げられる無理と主観にまみれた妄想にこじつけをまぶして考察と称することで客観性と正当性を手に入れようとするふんぞり返りから生まれる称賛も見飽きたしなにひとつ得るものはないので見なくていいです。そういったものに八年と少しの間の指を立て続けてきたことも、特に肯定しようとは思いません。自分も気をつけるべきところではあるんですが。

 というように取り巻く環境にいろいろあったけれど、作品そのものはためらいなく傑作でした。最終作の公開前に見返して、ただ一つ古びてないなと思えた作品でした(まあ再調整された3.333だからなんですが)。今でも一番好きです。

 

 音楽について。

 ・01.3EM01_EM20_Master 

  公開までほとんど情報を出さなかった作品の始まりが暗闇の中に炎が灯りそこにあるものの姿が明らかになっていく、というシーンなのがもう“一致”していて好きなんですが、更にそこからおなじみの曲のアレンジ=新しい姿が流れるとともに改2号機の顔が出る→アスカの顔が出る、というのはまさしくその新しい姿が明らかになっていく過程そのものなわけでこの辺の“一致”を冒頭に持ってくるのが本当に強いです。このまま強行する!のワイヤー三連発とか減速!のブースター揃うあたりとかが特に気持ちいい。

 ・02.3EM02_C17B_Nu_test02

  このときナディアは確か見てなかったんですが、冒頭のUS作戦が終わるまで全部既存曲のアレンジなのは音楽まで新曲だと流石に振り落とされるという判断なのかなとも邪推してます。爆発している改2号機を回り込みながらうつすカットがとにかく綺麗。

  ・03.3EM03_P_131_2dames 

  初見でリツコさんの言う「にあさーじ」が「ニアサードインパクト時」の略だと理解するのはまず無理なんですが、二回目くらいになるともしかしてニアサードインパクトの略でニアサーなのか…?という疑念が兆し、そんな略称でいいのか…?という疑念も生じます。どこでもしかして前作から結構時間が経ってる?と気づくかは人によると思うんですが、俺はこのあたりであれ?と思いました。あとやっぱミサトさんだけトップ2から来た人だよ。

 ・04.3EM04_EM10A_Q 

  おなじみ作戦進行中の曲、だと思っていたら途中から大げさなコーラスが入りだしてとうとう既存の曲にまでコーラスが……とビビりだす曲。このくらいなら場面にあっているんですが、それはそれとして大げさすぎて外してるように感じられたりもするのが鷺巣劇伴だと思います。「なんせ民間人も混じってる寄せ集め集団ですよ?」は全身が説明でできてる名台詞。

 ・05.3EM05_1125 

  封印柱がなんの説明もないまま画面に写ってなんも説明されないまま壊されていくの落ち着いて考えたらどうなってるのという感じしませんか。ミサトって基本的に何も考えずに突っ込む以外の作戦がないんですが、ヴィレって突っ込まないとどのみち負けるのでミサトのスタンスが適切といえば適切……なんだろうか……。このあたりが顕著ですが、三作目って一対二つではない目というものがいろんなところに散らばっていて、人物だとここのミサトさんだったりアスカだったりゲンドウ、機体に至っては改2号機・8号機・Mk.09・第13号機と全て一対二つではない目をしています。

 ・06.3EM06_C_16_take2 

  外が視認できるようになった瞬間に曲が始まるのが相変わらず音合わせの達人で気持ちいいです。このあたりの改2γ、作品全体を通しても珍しい戦闘以外の作業を遂行するエヴァなんですがここだけでしたね。新劇場版はやるべきことでいっぱいいっぱいなのでこういう本筋をそれた描写があるとやや嬉しくなります。あとカウント省略は省略しちゃだめだろ感ある。

 ・07.3EM07_C_15_take2 

  ヴンダーが飛ぶだけなんですがヴンダーが飛ぶだけなのにかっこよくて、三回目越えたあたりからここが泣き所になってきます。だってヴンダーが飛ぶんだよ?泣けるじゃん……。上下逆になっているカットが多くて、脳がいい具合に混乱するのが気持ちいいですね。

 ・08.3EM08_SS_103_junko 

 ・09.3EM09_P_83_2dames_mx3 

  「副長から説明があるそうです」という台詞から始まってずーっと説明されています。シンジの現状が説明されています。説明されていますね。モニターがばしばし映るのはソフトで一時停止して確認してくださいねということなのだろうとひとまず置いておくにしても(実際そうやって確認するといろいろ面白いです。シゲルお前いつあの瞬間を録画してたんだよとか)。説明シーンですね。ここのシンジに対する説明、ミサトがほぼ喋っていませんし向き合いません。シンジに対する説明は艦橋の場面からほぼ全てリツコが行っていますし、アスカもミサトに対して釘を差すような視線・声音で接します。ミサトのことだからシンジくんと長時間話させると絶対にボロが出るし私情を挟むから極力話させないようにするというので全員一致していて、それだけミサトがシンジを気にかけているしそのために動いてもいるというのはある程度見ればわかることだと思います。

 ・10.3EM10_1176_long_end  

  Mk.09の手を挟んで相対するシンジとミサトのカットが決まりきっててめちゃくちゃいいです。さっきまでとは打って変わってきちんと向き合ってご丁寧にサングラスが片方破損して視線が通じていて、なによりDSSチョーカーを起動できないという点でミサトの内心はものすごくわかりやすいですし、その後のリツコの顔と空を見上げるミサトの後ろ姿はダメ押しもいいところ。ミサトのような人間がもといた組織を離反してまでこういうことをするのはどうしてか、をここから考えるとだいたい想像は付きますね。

 ・11.3EM11_QuatreMains_E_03_mx3   

 ・12.3EM12_SS_101_2femmes_option 

  ジオフロントから空が見える、旧本部が廃墟になっている、ここからどうしても旧劇場版が想起されます。しかも作中でそうなるのではなく、すでにそうなってしまった後の状況にシンジがいるわけで。弐拾四話をやりつつ25・26話も扱うのかなと期待してしまうところです。してたんですけどね……。変わり果てた第七ケイジは流石にこみ上げるものがあります。あとピアノを弾く渚カヲルといえば漫画版なので、そこも拾ってくるのは感慨深くなりました。

 ・13.3EM13_Guitar_ForQ 

  序の繰り返しをやりつつ三人目の紹介なんですが、本の話題を出すのは正直難易度高めだと思います。一応看病しているシーンで読んでいるのが印象的と言えば印象的なんですが、「いつも」と言えるほど描写されたわけではありませんし。ただこういう細かいところも拾っていくから見返してねという合図としては捉えられます。ただネルフに図書室とかあったんだ……という驚きが他を塗りつぶしてしまいがち。

 ・14.3EM14_Piano_Adlib_44

 ・15.3EM15_pre 

 ・16.3EM15_QuatreMains_Fun_07_edit_B 

  廃墟になった第七ケイジの底に緑が茂っていてそこにピアノがあって渚カヲルと出会う、というのはものすごく広く捉えれば初めてシンジが本部にやってきて初号機に乗れハラされた時の繰り返しで、こういうちょっとした単位での反復がいろいろ埋まっているのが今作の楽しさです。

 ・17.3EM16_QuatreMains_60sec 

  YOU CAN (NOT) REDO.という英題の作品で繰り返しについての話がされているものすごく大切なシーンなんですが、爽やかな青空を駆けるニ頭の馬に頭が持っていかれてしまう。いや馬か?この二人を動物になぞらえるとして果たして馬か?いや馬が出てきているので馬なんでしょうが……。本当に馬か?短期間で上手になりすぎという理解よりかは、これほど上手になるまでこうした日々を繰り返した、という理解をしたいところです。

 ・18.3EM17_SS_106_female

  シンジくんは星が好きというのは前作でちょっとだけ示されていて、アスカに捨てられかけた荷物の中にある本が天文関係なのと、部屋に銀河や惑星のポスターが貼ってあったりします。一瞬すぎて大半の人が急に感じるでしょうし実際俺もえ?と思ったんですが、描写はちゃんとあるんですね。素直に弐拾四話しつつ台詞が若干ひねってありますね。

 ・19.3EM18_P_140_70bpm 

  鈴原トウジのあからさま感というか、そもそも彼いつもジャージでシャツ着てたの見たことないよねというか。

 ・20.3EM19_Omni_09 

  コア化した外界のビジュアルがものすごい強烈で心に焼き付きます。これが見たかった。人類補完計画がどうやら旧作とは別物であることの説明もされていますが、ここでいちばん大事なのはニアサーとサードは別物だということです。これは確かにわかりづらくて、ドグマに降下した時に爆心地といっている時点でようやくようやく自信を持ってそう受け止められるんですが咀嚼に時間はかかりました。ここでチラシなどで出ていた「希望は残っているよ。どんな時にもね」が使われてアイキャッチ、に入るのが素晴らしい。

 ・21.3EM20_P_56_A4_orch+piano 

  見どころはゲンドウの言葉をめちゃくちゃポジティブに捉える冬月先生で、どう考えてもゲンドウはそんなこと言ってないのに冬月先生好意的過ぎでは?と思ってたら最終作で実は正解だったことがわかって二度びっくり。将棋は打てるか、のミスは結局直りませんでしたね。ここもここで堂々と説明パートやってるんですが、電源が復旧したかの一言で背景に映る旧型のエントリーシステムだったり綾波レイの骸だったりと演出最優先の謎空間が最高。そして今回は碇ユイではなく綾波ユイとされることでユイは設定変更されているのがわかるんですが、つまり六分儀ゲンドウではなく碇ゲンドウという変更もされているわけですね。ゲンドウの行いを伝えつつ、間接的にシンジの行いも責めずにいるという冬月先生です。旧シリーズでも不安や緊張感といえばこの曲だったA4が新劇場版初登場。

 ・22.3EM21_P_57_A4_2files+1 

  三作目のことを褒める時に旧シリーズっぽい・旧劇場版っぽいというのは端的な誤読なんですが(暗い展開ではあるけれど暗さの質が違う)、そういう言われ方をする一因としてはおそらくこのシーンがあるのかなという気がします。A4のアレンジ曲に合わせて否定的な言葉が繰り返されるというのはたしかに旧シリーズっぽい場面ではあるので。でも逆に言えばここだけで、後はやっぱりぜんぜん違うと思います。

 ・23.3EM21A_QuatreMains_G

  時が来たね。 

 ・24.3EM22_SS_101_Orch 

  いいことにまつわる会話、というと前作のマリが思い起こされます。あのときは「そんなにいじけていたってなんにもいいことないよ」でしたけど。いいことがあるからエヴァに乗るの?という疑問って前シリーズだったら結構掘り下げていくものだと思うんですが、今作はあんまりふれずにあっさりいくのが見返すと結構な違いですよね。ここでカヲルくんがチョーカーを自分につけるのはエヴァが覚醒した際に自分が犠牲になってそれを止めつつシンジの犠牲を回避するため、というのは台詞でも説明されてますしその後作中でまさにその通りになります(トリガーが死ななければインパクトや覚醒が止まらない)。台詞と出来事の二つで示されているので、せっかく外したのになんでつけてるのかを疑問に思うということは台詞も出来事も追えていないということです。今シリーズで毎回あるシンジが誰かの手を取る場面、今回はここでカヲルくん相手です。

 ・25.3EM23_1128_take4_360

  ドグマへの降下はやっぱり弐拾四話で、ということはカヲルくんは今回もきっと…となってしまうのですが、カヲルと弐号機を追いかけるシンジと初号機だったのがシンジとカヲルを乗せた(初号機に似た)第13号機・レイの乗るMk.09を追いかけるアスカと改2γ・マリと8号機にひねってあるからもしかしてそうならないんじゃないか、とつい考えてしまいます。

 ・26.3EM24_SD2_01_take3_360

  槍があれば全部やり直せる!序盤に引き続きシンジくんがわからずや!と叫びますが、見てる側からするとシンジくんが一番わからずやです。プラグが届かないだろう地下にどうやっていくのかの答えが手首から充電できるバッテリーなの身も蓋もなさすぎてびっくりした。

 ・27.3EM25_SD2_53_take3_IntroStart 

  リリスの体表を這って進みゆっくりと体を起こす第13号機はそのまんま序で第六の使徒の攻撃を受けても諦めず這って進んでポジトロンライフルを構え直すところで、シンジの動機としてはあそこと、ひいては破の第十の使徒戦と同じです。自分がエヴァに乗って何かをすることでいいことがおきる、その可能性があると飲み込めたのなら何があってもそうする。ただ、動機が同じでも行動が同じということにはならない、繰り返すことはできてもやりなおしはできないというお話なので、そうはなりません。こういったシンジの頑なさを不自然に思ったりするかもしれませんが、頑固さそのものは前作前々作でもずっと出ていましたし、彼はもともとこういう人なんですよね。破のパンフレットを読んでるか読んでいないかでそこの理解しやすさはちょっと変わるとは思うんですが。

 ・28.3EM26_1155_139_take4

  アルミサエルが元ネタなんでしょうけど、それにしても第十二の使徒はもうちょっとデザインひねってほしかった 。ゼーレが旧シリーズとは全く別の存在なのが明示されていよいよ補完計画含めてどうなっていくのかがわからなるんですが、結果としてゼーレがレバーでガンガン死んでいくのがなんというか、破のグリーンバックゼーレ会議と地続きのそこそれでいいんだ……感あります。

 ・29.3EM27_Beethoven9_Orch+Cho  

  正直これだけ変えたなら第九は使わないかもと思っていたんですが、使うには使うけど画面と合っていない使い方をすることで弐拾四話からずらす、というやり方をされるとなるほどと受け入れてしまいました。強く言うほど違和感はないんですが、やっぱり弐拾四話の画面との音合わせなりなんなりがかなり気持ちよかったのに比べると全然印象が違うので。

 ・30.3EM28_Nu09_360

  お約束の既存曲→新曲メドレーでありつつ第九をぶったぎってくるので、やっぱりこれは弐拾四話じゃなくてQであるというのをわからせてくれます。場面によっては こういう曲ってやりすぎ感を覚えるものもなくもないんですが、このメドレーで使われる大げさで派手派手な新曲は三作ともきっちり合ってて文句なしです。

 ・31.3EM30_GuitarForQ_Pno+Vo_Orch+Pno 

  やっぱりこうなってしまうけれど、こうなるまでは変わっていたのだからこうなった後も変わるはず、というのはカヲルくんの長台詞で伝わってくるんですが、まあ辛いよね。

 ・32.3EM31_1120_360

  三作目で一番好きな曲です。大きな物事が閉じる瞬間、後悔、最善ではないけれど収束はした、というのをやや重めの曲調で盛り上げつつちょっと泣ける曲。歌詞は創世記からもってきていて、歌い出しがSix days have passedなのでこの後は安息の日が来るからという内容なのも締めくくりつつ次へとつなぐ曲としてぴったりです。希望は残っているよ、どんな時にもね。

 ・33.桜流し

  イントロと最後の歩いて行く三人があまりによすぎて何年でも待とうと思いました。エンドロールで輝くのが虹色ではなくて赤い光なのも含めて、最後に流れるものとしてこれ以上のものはありません。

 ・34.3EM32_F02

  とうとう次回予告まで大げさなコーラスの餌食になってしまったんですがまあ最後の予告だし派手になって悪いことのある曲じゃないしでめちゃくちゃこのアレンジは好き。何より8+2号機がかっこいい。いや誰がどう考えても絶対に次回作には出て来ない急場しのぎのものなんですが、この30秒観客に次もちゃんとやるつもりだし作ってるから来てくれよな!と示すためだけに画面に乗り込んできて大暴れしてジャンプするのめちゃくちゃかっこいいですよ。リボルテック買ったもん。実際の内容に沿った次回予告というのは次回が来てしまえば単なる本編の切り貼りになってしまうわけですが、実際と違う次回予告は古びません。いつまでも予告のままでまだ見ぬ次回への萌芽でいてくれます。なので3.333よりはこっちのが予告としては好きです。 

090627

 前の記事からだいぶ間が空いたので改めて続きを書こうとして、そもそもなんでこんな文章を書こうとしたのかということをもう一度把握するのに結構時間がかかりました。ひとつには作品以外のこと、公開当時に見たいち個人の経験を残しておくことは後から見た・これから見る人に何かしら足しになるかもしれないというもの、もうひとつとしては自分の中でもう一回この作品に向けての気持ちを整理したい、というものです。ここでの整理は思い入れや好意的に捉えた部分をしっかりそういうものとして分離させることも含みます。自分と作品との関係とはほかに代えがたいたったひとつきりのものですが、それと同じくらい、無数に転がってるありふれた取るに足らないものでもあります。思い入れを剥がすことで見えてくるものもあるでしょうし、美化を素直に美化と認めて取り去ることでわかる形もあるはずです。そうできたらいいしそうできる人間でありたいね。というわけで第二作です。

 

 シリーズを通して、公開前から公開後まで一番プロモーションがうまく行っていた印象があります。公開前の確か二月くらいに六月公開という情報を出して、三月から六月にかけて毎月無料冊子を配布してそこで段階的に情報を公開していくというのは追いかける側からするととても楽しいものでした。土曜日の学校帰りに第二号をもらった後お昼ごはんに入った日高屋で同じ部活の部員とぺらぺらページをめくりながら話していたことを覚えています。振り返ると単に迷惑な子供ですね。お恥ずかしい。それから何より印象に残っているのが本予告で、あれを初めて見た瞬間にもしかしてこれ本当にやばいやつでは?という圧倒的な興奮がありました。他の映画を見に行って上映前に流されたせいで、見終わった後はその映画の感想と本予告の感想とが割合的に半々くらいになったりして、今だと確実にYoutubeでループすると思うんですが当時どうだったかはちょっと曖昧です。Youtube自体はある程度浸透していたと思うけど、本予告を制作側が発表後にアップロードしていたかというと微妙な気もする。公式サイトで動画は見れた気がするので、恒常的ではないかたちで見る手段はあったかもしれません。

 公開後は新宿の歌舞伎町で第3歌舞伎町宣言という催しが開かれて行った覚えはあるんですが、映像媒体として公開されたEXTRA05以外の記憶がありません。ただ第3歌舞伎町宣言で検索すると当時のブログとか映像とかがまだ残っていて、今はなき東急ミラノ座の前での様子が垣間見れます。ミラノ座が閉館前に特別上映をやった時のラインナップにEoEがあって見に行ったんですがそれは二〇一四年のことですね。八月くらいから入場者特典でポストカードが配布されて、これは手元に全種類あります。そして公開からおよそ一年経ってようやくBD・DVDが販売されるんですが、そのプロモリールがおそらく本編含めた新劇場版関連の映像の中でも一二を争うくらいにものすごくいいもので、これは今でもたまに見返します。その勢いに乗せられたかどうかは定かではないんですが、発売前に箱根の仙石原中学校で上映イベントがあって当選したので行きました。バスに揺られたことと体育館での上映におそらくボランティアの中学生が参加しててええ……ってちょっと引いたこと、体育館内に掲示されたポスターが修正カットを羅列した2.22仕様になっていたことを覚えているんですが、参加者特典の第3新東京市の住民票は紛失していて、記念のピンズだけが残っています。だいぶ色あせてしまっているんですが。あとなんかめちゃめちゃ当日暑くて待ち時間とかでかなりげんなりした気がする。というふうに、公開した後もソフトが発売されるまで程よく作品への興味や半数を手助けしてくれる感じが一番好きでした。もっとも次回作は露出できない内容ですし、最終作は正常なプロモーションができない状況だったので比べるのも違うとは思うんですけど。

 

 内容について。できれば初日初回がよかったんですが、当時俺は高校生で土曜日も授業があったのでそうはいきませんでした。なので終わるなりすぐさま映画館に行ってチケットが残ってる回をとって、他のクラスの知り合いに会ってまあ来るよなみたいになったりしつつ、いよいよ上映回が近づいてきたということで入場した時に前の回の音が漏れ聞こえたんです。それがあろうことか翼をくださいで、幸いなことに中学で合唱シーンとかがあるのかな?そういう場面を描くのっていままでなかったな…くらいに思いつつ音聞かないように離れとこ、とその場を離れました。当然自分の回の上映までにはそんなことすっかり頭から消え去っていたので、浮ついた頭でよかった数少ない例ですね。いや忘れてて本当によかった。

 そんなこんながありつつ本編を見たんですが、すごかったです。少なくとも、中学受験の時期に旧シリーズを見た後にまあでも前に終わった作品だしなみたいなインターネットの年上をコピペしたクソみたいな意識を持ちつつそこそこ好きだった作品がしっかり新しいものになっているというのは、これはものすごい嬉しいことでしたし、それが面白さや新しさやすごさによって達成されていたことに圧倒されました。終わった後興奮して先輩に電話して見た????って話しかけた気がします。やっぱり翼をくださいが流れてから、音と画面の一致(と内容の不一致)、選曲含めて圧倒されている時にぶつ切りしてエンドロールが流れ出して聞いたことのないイントロで始まった曲が実は知ってる曲で、という畳み掛けがとにかくうまい。リメイクだったりアレンジだったりする作品に求めることって「知っているものの知らない姿」「知らない姿でもう一度圧倒すること」なんですが、二作目に関してはそれが期待以上に達成されてました。あと全体的に新劇場版のお約束ってここから始まってて(冒頭に戦闘とかマリの歌唱とか封印柱とか2号機が壮大な音楽であっさりやられるとか。終盤に既存曲→新曲で盛り上げリレーするのは序からですね)、その作品の特徴として挙げられがちな要素って実は作品に出てくるのは中盤以降みたいな話どっかで聞いたなとかもぼんやり思いうかんだりしました。

 ただこれは二作目特有のものなんですけど、なんですごいかっていったら旧シリーズが前提にあるからなんですよね。マリの登場自体は二作目だとそこまで効いていなくて、加持の「誰も君に強要はしない。自分で考え、自分で決めろ」という全体で見てもいやそれもう乗れって言ってるしここだけ抜き出すと普通に一行で矛盾するよねという説教の代わりに逃げたきゃ逃げれば?になったところとかは適切だなーとも思ったんですが、全体で見るとやっぱり第八使徒の球形→サハクィエル状に変形するところとか、3号機に乗る人間が違うとか、第十使徒戦周りとかのほうが印象に残る。兵装ビルの展開とか水族館とかご飯周りも好きなんですけど、特に初回って新規の場面よりはアレンジの方が強く印象に残ったんですよね。とりわけアスカのくだりは旧シリーズを知っていればいるほど初見の時に追い詰められるもので、アスカに決まったとの台詞でおいおい嘘だろと思うじゃないですか。いやでもリメイクだし、もしかしたら3号機が乗っ取られる展開自体を変えてくるのかもしれないなこれ、いやだってアスカ乗ったままあれやるの?マジで?漫画版だと死んでたよね?あーなんかこういうところでミサトとアスカの会話あるのいいな、加持に惚れてるって要素抜くだけでここの三人こんなにおだやかになるんだ、あー、あー……っていう。その後の第十使徒戦も含めてこうした流れは確実に強く心に刻まれるんですけど、言ってしまえば初回に特化してるわけで、複数回見たり時間が経つと味がしないとまでは行かずともまあこうなるよな、くらいのところには落ち着いてしまうんですよね。もちろんそれは俺が当時通いまくってたぶん十回以上見たしそれ以降もちょくちょく見てたというのもあるんですが、この“もとの話から別の話へずれていく”というギミックを抜きにしてみると結構ぎりぎりのバランスで成立してる、なんとかなっているけどなんとかしているのがわかる作品でもあるというのが完結作公開前に十年ぶりに映画館で見た時の感想でした。新劇場版のほうがスタンダードみたいな扱い方をされるくらい時間が経つと、式波アスカがここでこうなるというのは前提でしかないのでまあそういうものだよね以上の心の動きは起きません。それと加持リョウジが今見るときつい。最後の翼をくださいのところはそれでもまだ圧倒されたんですが、作品全体としては“旧シリーズを知っている人が、特報や予告以上のことは知らずに見る”場合の魅力に特化した作品という結論になります。そして公開当時はそういった層がほとんどのはずなのでそりゃまあ絶賛されるよね、ただ耐用年数は短いよね、みたいな。公開当時はこれ旧シリーズ見てない人は面白さの最大値味わえなくない?とのぼせ上っていた気もするんですが、今だと旧シリーズ見てない方が下駄をはいてない状態で作品を見れたわけでもあるしそっちのほうが適切だったんじゃないか、それがこの作品本来の評価されるべき状態だったんじゃないかとも思います。あと終わり方と予告の期待させ方が上手すぎるからそれもある。

 自分含めてめちゃくちゃ盛り上がったのは確かなんですが、ただ同時にそれはどうなのよ?と思ったこともあって、当時覚えている人は覚えていると思うんですがゲンドウの車が3号機暴走の知らせを受けて急カーブするシーンでゲンドウが重箱を持っている、という話が流れていたんですね。実際にはそんなことなく複数回見た人からそんなことなかったよと指摘されたのか次第に消えていったんですが、“実は不器用ながらも子に近づこうとしている父”というイメージにすがるあまり存在しないものを見てしまうくらいには人間の記憶や認識って頼りにならないということを思い知ったきっかけにもなりました。場面自体が一瞬だったということもあるにはあるのでしょうが、それにしたって画面に存在しないものを設置してしまうレベルの誤認って普通に怖いし、自分がそれをやらないという保証もないし、いまでもこれは普通に肝に銘じたいことです。情緒に引っ張られて作品で描かれていないことを捏造する前に作品で描かれていることをきちんと正確に捉えるように努めないと、頭の中ではいくらでも歪めることができてしまう。それがよしとされがちな情緒的なもの(この場合だと親子の絆の実在)であればあるほど懐疑的な検討の余地が挟まりにくい、というところがなおさら危ないところです。

 

 第二作として単体でも面白いのはもちろんなんですが、これ以降の二作をちゃんと見る上でとても大事なところも山ほどあります。この後さんざんネタにされた行きなさい云々にしたって考えるべきは「誰かのためじゃない」というところじゃないですか。この誰かというのはもちろんミサトも含んでいて、そもそもこの前にミサトとシンジが会話したのって誰とも笑えませんの会話のところ、ミサトが自分の傲慢な心情を吐露してでもシンジを引き留めようとしてシンジがそれを拒んだところです。誰よりも自分の願望を押し付けていたからこそ、それでも来てくれたシンジに自分の願いのために行きなさいと言うのはそれこそ自分の罪悪感に由来する後押しでもあり、その結果何が起きたか、そしてミサトはセカンドインパクトで人生が損なわれた人間であり……というのをきちんと拾えているかどうかとか、言った後にきちんとリツコが静止する反応をとっていたりとか。シンジについてもかなり大きな捉え直しがあって、このあたりはパンフレットに詳しいですが要するに良くも悪くも彼は一度これと決めたら絶対にそうしようとするしそれを妨害するものにすごく強く当たる人間だ、という認識が中枢に近い人間に第二作を作る過程でようやく浸透していたりもする(あくまで第拾九話と今作との比較です)。そしてその結果サードをおこしかけて終わるわけで、きちんと見ていれば明るく前向きに徐々に変わっていった世界で熱血展開!という話ではない。そもそもサブタイトルがYOU CAN (NOT) ADVANCEなわけで、どこからどこへのADVANCEがCAN (NOT)なのかを考えると第九使徒戦から第十使徒戦でしょうし、前作の第五使徒戦からのでもありえて、やっぱり素直に成長できたぞ今度は熱血綾波救助!って話ではないんです。ないのですが、なんかこう、そう受け取られてたじゃないですか……。マリが都合のいいやつって言ってたのに……。そうじゃないじゃんというようなことを三作目の公開前には考えていたので、今度は前向き熱血!最高!みたいな褒め方を見るたびにいやそういう要素もあるけどその奥にそうなってないところがあるしだから面白いしだからここからどうなるのか気になるんじゃんと思っていたし、なので三作目も跳躍の幅はともかく方向性自体はそうなるよねと飲み込めたので、なんというか……いやこれは恨み節なんですけど。正直このあたりの齟齬についてはずっと考えすぎてもう書くのもめんどくさいところだし、終わった後にどうこう言ってもだから言ったじゃん的なクソ言及になってしまうのでカスもいいところなんですが。あとはまあなんか全記録全集読むと楽しいよねとかいろいろありますけど、ともかくすごいにはすごいし面白いものの一回しか履けない下駄を履いていて根っこのところで大事なところが気づかれにくかった作品で、その気づかれなさが回り回って最終作でああなったんじゃないだろうかという邪推を今だとついついしてしまいます。恨み節もいいところだけど。

 

 音楽について。この公開のちょっと前くらいから作品にふれる時にサントラを聞くようにはなっていたんですが、決定的になったのはやっぱりこの作品です。本予告に使われたThe Final Decision We All Must Takeが無限に聞きたくて、そうすると劇中サイズのサントラを聞くようになって、新劇場版は音楽の使い方がかなりがっちり場面ごとなので内容をだいたい音楽に合わせて覚えるようになって、という過程を踏みました。全体的に盛り上げ曲になるとオーケストラでドーンしてコーラスがアーばっかりになるのは正直諦めどころというか、全記録全集で監督にすら曲の終わり方大体同じじゃんみたいな言及もされているのでむしろ笑うところな気もします。前半はその気が強くてそこまで印象に残らないんですが、第十使徒戦の音楽はそれがいい感じに合致してて好きです。既存曲→新曲のお約束もSin From Genesis翼をくださいは文句なしにいいし。EXTRAの最終号でもDVD/BD発売のプロモリールでも用いられたのは結局翼をくださいだったので、やっぱりこの作品の肝はあの曲が流れているところだし、なんならプロモリールで延々繰り返しているところかもしれません。終盤にあるマリが手を開く→シンジが手を握る、のつなぎ方が一番好きなところです。

 

070901

当時の状況を思い返してみると今とぜんぜん違っていて、もちろん記憶だから曖昧になっていたり美化されていたりはするのだけど、それにしたって14年以上も前なのでいろんなものがあったりなかったりする。あくまで自分に限った前提条件をいうと①TVシリーズ・劇場版は見ていた(REBIRTHは未見)②漫画版は最新巻まで追いついていた(9巻か10巻だと想う)③フィルムブックは後から出た三分冊のものは持っていた、というのが大まかなところ。ただこれは若いうちにインターネットやっちゃった弊害だと思うんですが、なんというか、作品自体に“物心付く前にものすごい影響を生んだけどそのまま燃え尽きたカルトな作品”というイメージがあったんですね。それ自体は02年~06年位までのイメージとしては当たらずとも遠からずだったとは思いたいんですが、そこでこうなんというか、90年代に対する変な憧憬と神格化みたいなのがあったというか。感想とか書いてあるサイトを漁ってしまったせいで変にリアルタイム世代の擦れ方を模倣しちゃったところがあって、新劇場版がなかったら確実にもっとよくない方向に行ってた気がします。作品の持っている暗い部分やそれにまつわる表現とかは深く届いたのだけど、実のところそれが刺さったのって俺の場合すごく簡単で中学受験があったからなんですね。他の家庭のことは知らないので自分のことになりますが、これこれこういう理由で中学受験するねという説明をされた記憶がなく、いつの間にか塾に行くことが決まっていて、嫌だというと怒られてどうするの?やめるの?と明らかにやめてはいけない前提でこっちに選択権を無理やり委譲されてやめませんと言わされるというのが俺の中学受験でした。こういう中学受験のさせ方をすると碇シンジに鬼シンパシーを感じて受験期にエバンゲリオンを心の支えにしてしまう12歳になります。

だから受験終わって中学校に入って一段落してたし、ちょっと前に流行ったマニアックな作品が好きだぜみたいなキモい自意識もあったりしつつ、そんなだからもう一回やるよとなった時にこれは自分たちの世代のものだなんて気持ちもあったりしました。振り返ってみると別に世代のものもクソもなくて、自分が出会った時がその作品との時間の始まりだし、一人で向き合う全てで自分のものであり自分だけのものでない作品との関係を築くことに比べれば世代とかどうでもいいんですが、そこは子供の思い上がりとして扱ってください。とにかくそういう状況で新劇場版が始まったのが2007年の9月になります。

正確に言うと見たのは公開日ではないので記事のタイトルは嘘なんですが、なぜかというと当時所属していたのが文化部で文化祭前が一番忙しい時期だったんですね。だからなんとな~く文化祭終わるまでは映画とか行く時間ないやろみたいな雰囲気があって、たぶんそれは勝手に内面化してただけで今思うと2週間前に90分前後他のことやってたら間に合わないものってもうその時点でどうやったって間に合わないからどのみち行ったほうが良かったんですが。で、見に行けたのは結局文化祭が終わった九月中旬でした。先輩と同期と一緒に行って、パンフが売り切れたかなんだかで先輩に貸したような記憶がありますがだいぶあやふや。でも映像がすごくて、今の技術でやるとこれだけ新しくなるんだという感動はありました。最後のカヲルくんも最高だったし。

内容にについては当時そこまではきちんと受け取れてなかったというか、実際第六話までのダイジェストの風味が強いのでTVシリーズを見てると映像面に関心がいっちゃう感じはあります。全体的に前向きになった、くらいのことはもちろん感じていたと思うんですが。その前向きを誰が担っていたかというとやっぱりミサトさんで、序は明確にミサトさんの話をしてます。一緒にドグマに連れて行くところとかかなりおおー、となるんですが(死ぬのが怖い死ぬような場所に向かわされるのが怖いと言う子にむかってみんななんかあったら死ぬつもりでやってるしひとりじゃないしがんばってねはちょっとゴリ押しすぎるけど葛城ミサトはそういう人間)、シンジとミサトの関係をヤシマ作戦まで引っ張った結果トウジとケンスケのいいところがざっくり削られてるのが惜しいというかもったいないなくらいの感想は、当時ではないにしろ09年までには固まっていたと思いたい。ワシを殴れのシーンは一応あるんですけど、あそこのいいところって帰るってなってるシンジを止めずに送り出せるところ、その上で貸し借りなしにしようと殴られることを提案するトウジじゃないですか。それ抜きでワシを殴れ、されてもなんかいい印象は残んないですよね。特にケンスケは第四話のケンスケキャンプがまるごと削られたせいで嫌な奴っぽい印象のほうが強いですよね。これは見返して固まった感想です。ただそういうところはあれど、次回予告を含めてなるほどどんどん変わっていくんだなという期待の大きさは絶対にありました。ここまで続くとは思ってなかったけど。

この後も折りに触れ何度か見返したんですが、その後に比べて順当なリメイクという印象の強い作品でどういう理由にしろあまり話題に登りづらい感じはします。2020年に見返すとびっくりするくらい古びて見えたんですが、1995年の作品を2007年にリメイクしたものを2020年に見たら古びるも何も事実として古い作品なわけで、長いスパンで作品を追うと見え方が見る度に変わっていくということを実感したりもしました。

あとは音楽についてちょっと喋りたいです。Angel of Doomのくだりは新劇場版お約束の既存盛り上げ曲→新規盛り上げ曲がめちゃくちゃ決まった名シーンなのはもちろんなんですが、シンジが乗れハラ(エヴァに乗れハラスメント)されてる時のピアノ曲がめちゃくちゃよくて、しかもタイトルが“I'll go on lovin' someone else”なんですよ。エバゲリでそんなタイトルの曲出たらそれってもう答えじゃないですか、というのは14年後に示されたとおり。

220115

あけました。何年か前から新年に絶対にあけましておめでとうとは言わないようにしていて、めでたいかどうかなんてわからないし決まってないしそもそもめでたくない状態で新年を迎える人だって山程いるわけで、それなら別に今年もよろしくだけで挨拶としては十分足りてると思うんですよね。俺も全然めでたくなくて、あの後結局猫は亡くなったし妹が一型の糖尿病と診断されたりなどして2022年がやってきました。どうにもならないことはどうにもならないまま、どうにかなるかもしれなかったこともどうにもならなくなっていくのが生きていくということです。あとまあ自分の人格としての底が見えたりと、色々行き詰まっていきそうな気配が濃くなっていますがそこから目をそらすのもまた生きていくということです。そこまでして生きる必要ある?っていうと悩んでしまうんですけど。

 

そもそもこのブログを始めた目的もそうなんですが、今年はまた小説が書けるように……なりたいのかなあ。わかんないです。元々ものづくりを神聖視する風潮っていうのが嫌いで、いやもちろん自分も読者だから好きな作品だったりその作者に対する憧れや敬意や好意っていうのはどうしても生まれてしまうものだとは思うんですけど、でもどれも結局人間のすることだよっていう意識はもっていたほうがいいし、あえて言えば結局人間にできてしまうことではあるんですよね。作為があって意図があってそうすればこうなるように配置されていてっていうのはそれこそ習えばある程度誰にだってできることなわけです。もちろん習えばある程度誰にだってできることだからこそ誰にだってできない上手さというものが取り沙汰されるんですけど。だからなんというか、いわゆる“漫画家漫画”とか“小説家の小説”みたいなメタ言及込みの作品が昔から苦手なんですよね。それが雑誌ないし単行本という形で流通している以上どうやったって(その時点では)生き残れている人の視点からの話になってしまうし、作品の中でいや作品を作るって疲れるばっかでいいことないしすり潰されてくことのほうが多いよ、という視点を盛り込んでもそれはリタイアとして描かれて結局生き残る人たちの生き残りの話になっちゃうんでしょ、みたいな。全部偏見といえばそうなんですが。だからそういう、何かを作る人達にまつわる話でありながら作ることの苦しみを決定的な悲劇にせず、作ることの喜びを他を超越した秘術にせず、というバランスの作品があると信頼できてしまって、今の所俺にとってのそれに当たるのが黒田夏子の『感受体のおどり』です。

あらすじとかは今お使いになられてる箱か板で調べてもらえば済むし、なんなら探せば冒頭もためし読みできます。雰囲気とか文体はわかると思う。どっかの本で読んだんですが小説って何を読むのかといえば文体だという話があってそれは本当にそうだと得心したんですが、この人の文体も本当にそうです。漢字をやたらひらいたり物の言い表し方が些細なことから逐一述べていったりするのを“詩情”や“文学”として飲み込む向きもあるとは思いますが、そこで止まる人はそこで止まる人なのでそこで止まる人生があります。そういう文体に出会った時って否応なく文章をゆっくりじっくり味わわざるを得なくなって、これは何についてどう書いてあってこう書くことでこちらにこういう読み方を強いることで何をどう読ませて描いているのか、ということをずっと考えさせられる。文体だけでなく全体の形式にもそれは表れていて、35個で一区切りになっている断章が全部で350個あります。もちろん1→2→3→…という順番でも普通に話は流れていきますが、1→36→71→…という順序でも話はつながっています。これを経糸緯糸と呼ぶのはちょっと違う気もするんですがだいたいそんな感じになっているので、真面目に読もうとすると最初の一区切りを10回読まなきゃいけなくなります。36にきたら1をもう一回読むし、71に来たら1と36を読むし、といった形で読まざるを得ないので、もう徹底的に読まされるわけです、そういうふうに書いてあるしそういう風に作ってある。なので単に400ページ目を通しました式の読書をするよりものすごく時間がかかって、実際に俺はこれを読むのに半年かかったんですが、半年かける本でした。二回目読むかどうかをいま悩んでいる最中です。

でまあどんな話かっていうと、わざとらしく言えば字書き日本舞踊躍り手のハードコア貧困生活記です。ものづくりってやっぱ特別だぜ!!!にもものづくりはクソだぜ!!!にも揺れず、揺れきれずによろめく話です。よろめかずにすむ皆さんはよろめきに思いを馳せ、よろめいている皆さんは足の踏み場所を探しながら、別に救われるためでも報われるためでもなく読みましょう。関係ないけどちょっと新作が書けるような気がしているんですがどハマリしているジャンルとかぶるともう二次創作したほうがよくね……?ってなるやつあるじゃん、今あれなんだよね。どうしよう。なんとか抜け出したい……ような、別になにもしなくてもいいじゃんと思いもするみたいな。やっぱ生きることって疲れるね。

 

211101

 猫が入院することになった。今すぐどうこうというわけではないが数値は悪く、ある程度回復してから退院してそれ以降はなるようにという流れで、自分としては一緒に来年を迎えられるとは思っていない。帰ったとき、なんでもないとき、居間に行って名前を呼んで返事がなかったり足音が聞こえたりするのを待とうとして、入院中なのを思い出してやめる。亡くなった後の振る舞いを先取りしているような気持ちになる。退院したらたくさん撫でてやったりベランダに行かせてやろうと思う。といってもこのいたたまれなさにも慣れたといえば慣れたもので、家には多いときで四匹猫がいた。何年か前に立て続けに二匹亡くなり、残りの二匹も年をとっている。どうあっても猫のほうが先に死ぬ。生き物を飼うことはそういうことなのでそういうことになる。

 こういうことに対してあまり慰められたり励まされたりしたくない。悲しみを悲しみきるには一人でいることが必要なので。それでいうと上にあった立て続けに二匹亡くなった年、二匹とも葬儀を同じ業者さんに頼んだら何も言わないうちから骨壷のデザインを同じものにしてくれた。これはいい心遣いで、ただもう一つ未だに根に持っている心遣いがある。どんな文脈だったかは忘れたけど、確か「天国で見守っていますよ」みたいなことを言われたはず。お察しの通り俺はこういう慰めが心底嫌いで、もちろんその場でなにかしたりはしなかったけれど、この人こんな無神経でよくペット葬儀とかやっていけるなとは思った。死ぬことが天国やあの世に行くことなのであれば、そしてそこから見守ってくれているのであれば、それは寂しくはあれ悲しくはない。そんなことでは一切ありえず、見守ってくれる何かなんてものが一切消えるからこそ死は悲しい。それを見守ってくれていることにしてごまかすことは悲しみの中にいる本人がなんとか日々を回していくための補助輪であって、いつか外さないといけない。し、他人がなげかけていいものではない。慰めだと思ってこういうことを言える人は慰めだと思ってこういうことを言う人なので慰めだと思ってこういうことを言います。そういう人にはそういう人なりの人生がある。俺はそういう人生を送りたいとは思いません。あとまあいなくなってから初めて気づいた的なあれもね。誰かが亡くなって得られた気づきや感情は、その誰かが生きていることに比べてあらゆる意味で劣る。なくさないと気づけない鈍さは恥じこそすれありがたがるものではないのでありがたがるのはやめましょうね。人生そううまくはいきませんけども。あと白夜極光の今回のイベントめちゃくちゃ良かったですしパロマさんが突破4になって超楽しい。あとどう考えてもベリエと二人で話す回が必要。