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 無理をして書くべき文章ではないのですが、かといっていつまでも放置してていい文章でもないのはわかっていて、それでもなかなか今作についての文章を書く気が起こりませんでした。厳密に言うと公開時に短めの感想を書いてはいるのですが、それもかなり短いものでしっかりと考えて書いたものではありません。だからこそまた完結作について書く時はきちんと……という気持ちになりきれないところが、なんとなくこの完結作の持つ力なのかな、という気がします。

 作品について感想なりなんなりを書く時、自分の中にあるものを整理することというのも目的の一つです。作品を見て自分の中に生まれたものに、無理やりだったり慎重だったりあえてそぐわないやり方だったり八方手を尽くして言葉というものを当てはめてみて試行錯誤し、とりあえずの形を与え、とりあえず以上のものを探す足がかりにする。その過程でなるべく通りのいいお話に美化してしまわないように気を遣えたりできればさらに万全ですが、同時に整理しようとする中で生まれるだろう整理しきれないもの、整理したくないものに意識を向けるというのもまた目的です。自分は何が引っかかるかを考えることはそのままそれがひっかかる自分はなんなのかを考えることに繋がります。そういったものをそういったもののままで抱えて、折に触れて考えたり突き詰めたりすることは結果的に作品の新しい見方に繋がるからどんどんやっていきたいんですが、なんというか、この完結作って自分にとってそういうことをする気力がほとんど湧かない作品だったんですね。もちろんこれで終わりだからというのもあります、というかそれがほとんどかもしれない。だってどれだけ考えたところでもう作品はすっかり終わってしまっているので、多少見方や視点が変わったところで新しく得るものはほとんどないというか。決して作品自体がつまらないといいたいわけではないんですが。これについては、自分が割りと細々した設定や整合性の追求にあまり盛り上がれないというのもあるかもしれません。とにかく、何かを書こうという気持ちに良くも悪くもならない作品でした。

 それならそれでそれについて書くことこそが必要だと自分でもわかるんですが、“書く気にならないことについて考えて書く”という服を買いに行く服がない問題の解決法ってこれといったものがないから難しいんですよね。最終的に時間に任せてしまいました。それによって抜け落ちたものも多々あります。実際、前回の三作目についての日記は完結作の公開前と比べて熱量なり読解なりがかなり劣っているはずです。それも含めてそういうものなので、ここはもう素直に諦めて今の自分で向き合うしかないです。向き合うというよりはごみの分別のほうが近いですが。

 

 公開までについて。なにぶん公開までの期間がかなり長い上に、直前になってさらにいろいろとあったので公開までのあれこれについて書くというのがかなりごちゃごちゃしてしまうんですが、確か本格的にいろいろ動きだしたのが2017年だったはずです。一番最初のティザービジュアルが出て、三作目のラストの続きを正面から描いている(人物が小さくて分かりづらいですが前作の最後とは逆になっています)というのにいたく感動しました。あのビジュアルは今でも大好きで、というか今作のポスターまわりは全部大好きです。

 そこから更に時間が飛んで2019年の7月に冒頭の上映イベントがあって、これは現地で参加しました。情報が出た時はうわー出たよ同じ作品が好きなら同じ空間で一緒に盛り上がれると思ってるお花畑が考えた“共有”のイベントだよウゲーーーと萎えていたんですが、しかしなにせ七年心の底から待ち続けた作品の冒頭なのでなんだかんだ行きたくなってしまい、向かってる途中で新宿の整理券が配布終了になったので急遽日比谷に向かって無事に整理券を受け取ることができてひと安心。当日傘を忘れたんですが雨が降り出して、近くのセブンイレブンで雨合羽を買ったんですがこれ以降一回も使う機会がなく今も部屋に転がっています。内容については後で言及しますが、この時に公開が2020年だと決まったはずです。あと一年と区切られたことで脳の中がぐるんぐるん回って三作目についてまた考えまくったのもこの頃でした。このちょっと後に特報が出て、6月公開まで決まってますね。そして年末に27日公開というのが出て二作目とそのまま同じ日付になることにエモ散らかしたりしてたんですが、そこからあとは感染症の流行で翌年4月に延期が決まり、10月に22年1月公開と決まるも直前で再延期して九日前に3月8日公開決定、というのが大まかなスケジュールのはず。

 一番やばかったのはもちろん公開日が決定した2月26日でした。これとは別に感染症関連で一旦中止になったライブがあって、その振替公演がちょうどその近辺でしかも前回当たらなかったチケットが当選していた状況だったので、年単位で待ちわびていた出来事が連続で来るとなるとそれはもうパンクするわけです。今思うと微笑ましいエピソードなんですが、混乱のあまりライブ当日入場待機列に並んだ俺が延々と繰り返し聞いていたのは残酷な天使のテーゼでした。本当にバカなんですがこれもまあオンタイムで作品を追いかける醍醐味みたいなものだと思うのでこいつバカだなあと笑ってください。テーゼでいうと2017年に開催されたゴジエヴァ交響楽にも俺は行ったんですが、新劇場版とシンゴジの曲でいろいろ遊びんでるのを楽しみつつ最後いつになるかな~という気持ちでいたら最後の最後にテーゼが始まっていや確かに代表曲ではあるけど新劇場版になってから一回も使われてないし突然1995年に巻き戻って宴会芸やるなよという微妙な気持ちになって拍手してて、なんというか、今から振り返ると作品全体に対する感想として当たらずも遠からずでちょっと変な気持ちになりました。

 話を戻します。一番やばかったのは公開日決定ですが、それまでもOneLastKissの本予告があまりにもよかったり、上映時間が2時間35分と発表されてQの1.5倍????と震え上がったり、CDの情報を見るとトラック2だけ曲名がふせられていてこれ絶対新曲か既存曲のアレンジを宇多田ヒカルが歌うじゃんという微妙なネタバレをほんのり食らったりしながら迎えた公開日当日、映画館に突っ込むと、まあその、流れていたんですね。BeautifulWorldが。いやまあそうだよな、破の時もこんなことあったなという気持ちになって、これもこれで映画館で映画を見るという体験ではあるし、破の時も本編始まったらど忘れしてたから平気でしょ、と思いつつ初日に二回予約していたので体力を心配しながら席について、上映が始まって、作品が終わりました。

 率直な気持ち、というにしてはこうして長い文章にしている時点でもとからかけ離れてしまっているんですが、見た直後の気持ちは今でもはっきり残っていて、“あ、そっち行くんだ……”というものでした。落胆でも失望でもなくて、酔いが覚めつつ納得するというのが適切な気持ちです。進行方向については肩透かしなんですけど、そういう進行方向のものとして考えると納得できるし腑に落ちる、けれど腑に落ちたかったかというとそうではないし、だけど終わり方としては妥当だし、という。1億点かマイナス1億点、高低どちらにせよ他にないものを期待したら普通に100点満点のなかで得点として成立する点数で出てきたという具合で、じゃあそれが悪いことかというとなんにも悪いものではないんだけど。理不尽ではないんですよね。前の日記でも書いた通り、あの続きとしてこうなるということ自体は全然飲み込めるんです。ただまあ飲み込めることと好きであること好きになれること素晴らしいと感じることは別で、かつそういったことが全くないかというとそうでもない。つまりものすごく普通だった。そういうことだと思います。以下、パートごとに内容にもうちょっと触れます。

 

 アバン1。ここに関しては本当に文句なし。初めて見たのが映画館ではなくイベントだったのでそちらの感想になってしまうんですが、マリの真実一路のマーチが東宝のロゴと一緒に流れた時に良すぎて嗚咽しちゃんたんですよね。いややってることは前二作とおんなじで、最初に何かしらの戦闘があってそこにマリがいて歌っていて、なんですけど、破で発明されたこの始まり方が強すぎて最後までこれになるというのが感慨深かったのと、単純に歌声が心を動かすものとだったのとでマジで声を上げて泣いてしまって慌てて画面に集中したのを覚えています。ネルフエヴァ陽電子砲という序のやり方で攻撃してくるのに対してヴィレ側は義手のエヴァが急造の槍でギリギリ対応するという破のやり方で応戦するのも完結作の幕開けにふさわしかったし、劇伴もあまりエヴァでは聞かないものからいかにも鷺巣詩郎な大げさ曲を経ておなじみEM20のアレンジで締めるというのも最強で、イベント後はずっと興奮しっぱなしでした。最高傑作になるよこれって思っていたんです。思っていたんですよね……。そこからアバン2で三人の放浪もまあ見たかったもので、Qで出た赤く染まった世界という絵面は本当にいい。ずっとこれだけ見てたいくらいです。

 

 Aパート。最初の“あ、そっち行くんだ……”はここでした。トウジとケンスケが生きてること自体は別に落胆しないというか、まあ確かにご都合主義ではあるんですけど、そこでひっかかるならそもそも使徒封印用呪詛文様とかある時点で引っかかるべきなので。むしろこれについては、いつ頃だったかは忘れたもののカラー2号機さんが設定資料の写真の表紙をSNSにアップロードした時に画像をいじると表紙が透けて中身が見えてしまいそこにしっかりトウジとケンスケがいたのですぐさまその画像が消えた件を思い出してあれってマジのうっかりだったんだ……という気持ちのほうが大きかったです。で、村ですね。村なんですよね……。こう、お話としてこうなること自体が嫌とかではないんですよ。打ちのめされた主人公が放浪の先でささやかな安息の地にたどり着くというのはよくありますし。ただまあなんというか、そこが“古き良き昭和”だったのがうーん……だったんですね。なんか文学史でやった気がする、とぱっと思い浮かんだのは武者小路実篤新しき村なんですがこれは多分関係ない気がします。なんでしょう、“古き良き昭和”自体はそういうものなんですが、それが放浪の先でたどり着くささやかな安息の地として出てくることがうーん…………、だったんですよね。繰り返し見ると言うほど安息の地ではないというか、むしろ安息の地ではあるけれど自分はそこで安らぐのではなくそこを離れてやるべきことがあるというのが村でのシンジくんのお話なのですけど、それでもうーん……なんですよね。あの生活が住んでいる人間の労苦によって成り立っている、荒廃した世界における希望として意図して実現されているものであって自然とそういうものとしてなりたっているわけではない、ということもわかるんですが、その意図して実現された希望が“古き良き昭和”なのがノスタルジックで、嫌というかそれを是とするんだ……みたいな。流石に農村系の新興宗教とまではいいませんが、別レイは手に汗かいて自然に触れてデジタルに還元できないむき出しの命に触れて自我を獲得!をひねらずまっすぐに突き進んでいくのでお、おう……ってなるというか。こう、エヴァに乗る以外の生き方を知ることで新しい自分を見つけ、それを受け入れていくという構図自体は全然間違ってないと思うし、お話としても別レイにかぎらず今作ってそういう話なので、そうなること自体は納得できるんです。意図は受け入れられるんですが、意図の表象として選ばれたものがあんまり納得できないというかうーん……そっちかぁ……となる。もしかしたら単に世代的なものかもしれなくて、俺は平成生まれなので昭和になんの感慨もないから微妙な感じになるだけで、ここで描かれる風景が平成初期のものだったらもしかするとめちゃくちゃエモくなってしまったかもしれません。しれませんが、しかし実際はそうならなくて、このあたりが見ていて一番うーん……となったところです。ただ放浪してるシンジとか、旧ネルフ施設跡でのくだりとかは画面がめちゃくちゃよくて好きでもあるので、本当になんともいい難い感じでした。

 トウジやケンスケについてはいい感じに対照的で、守ってあげる・優しくしてあげることを第一にするトウジ(これはサクラもそうですね)と最低限の安全を保った後はそっとしておいてあげるケンスケでどちらもシンジにとって必要な友人であることがわかりやすくて、わかりやすいぶんやっぱり序からの描写不足はあります。特にケンスケは前も書きましたが序だけだと変わり身の早い腰巾着に見えてしまいがちなんですよね。それにもかかわらず納得してしまうのはひとえに新世紀からの年月で醸成されたイメージのおかげなわけで、いやこれってどうなの?ずるくない?と思わなくもないです。ただここの、シンジ・トウジ・ケンスケでやってることってほぼそのまんま第四話のなんですね。というかQ-シン前半がほぼそのまま第参話-第四話の繰り返しになっている。もともと新劇場版が乗りたくない→でも乗る→いいことある→また乗る→嫌なことが起きる→乗りたくない→でも乗る→いいことがあるor嫌なことが、を延々繰り返す話なんですが、ここに来てその一番最初である雨逃げ出した後を持ってくるのは確かに感慨深くはあるんです。新世紀で唯一総監督が脚本に名前を連ねていなかった回でもあるし。ケンスケキャンプ2021として見ると悪いものではないんです。シンジが持ち直した後、ケンスケと一緒に外でいろいろやるシーンは村よりは抵抗感なく見れて、封印柱が刺さってるところとかは見たかったビジュアルだなという感じでした。

 村の描き方とは別にもう一つ引っかかったところと言えば加持リョウジくんで、これも意図は納得できるけど……というひっかかりです。ミサトと加持の顛末はまあ今やるにあたって加持を素直にかっこいい人間として描くのは無理があるしこれしかできないだろうという感じなんですが、そういう背景を経てそこにいる子供に故人と全く同じ名前をつけるのってどうなの?という疑問がどうしてもあります。別レイの名付けと並走してるから余計に際立って見えてしまうんですね。だって言ってしまえばゲンドウですらそこの区別はつけていて、複製体であっても別人だからと違う名前をつけているのに、生殖を経た存在に対して同じ名前をつけられると名付け親の神経を疑ってしまう。確かに別レイも別レイの名前が思い浮かばないという結末にはなっていますが、あれは別の可能性を辿った複製体という“同じだけど違う”、“違うけど同じ”存在だからこそぎりぎりで成り立つ答えなわけです。けれど加持リョウジくんは血こそ繋がってるものの血が繋がってるだけの全く別の人間であるわけで、加持という存在の別の可能性でもなんでもないわけなんですね。そういう存在に亡くなった相手と同じ名前を親が付けるというのは、ものすごく身勝手なことだと思いませんか。今作について、相手を見つけて生殖し大人になれみたいなメッセージが強くてどうのという意見を見ましたし、そういう気配がないとは言い切れないんですが、それをいいものとして信じてやりたくてやっているかというとそうでもなさそうと俺が思うのはこのあたりになります。そこら辺を真面目に考えてたらたぶんこういう名付けはしないはずで、どちらかというと人物がそういう経過をたどると見ている人間が成長したと感じてお話の終わりだと認識できるからそうした、というように感じます。こっちのほうが問題は根深くて、見る側も作る側も深く考えずそれを“お話の結び目”として認識してしまうのは決して好ましいとはいえないでしょう。でも今作ってだいたいこういう感じなんですよね。それがうまくいってるところもあれば全然ダメなところもあって、加持リョウジくんまわり、ミサトさん周りはあまりうまくいっていない。カヲルくん・アスカまわりは納得がいく。そんなこんなでこの作品に関する微妙さというか、抵抗感のおおよそがAパートにあったので、初見の時は結構ここでグラグラしました。逆にここ以降は、“そっち”に行ったものとして見られるようになったのでここほど動揺はしなかった気がします。

 

 Bパート。ここらへんはさっきも書いた通り割りと落ち着いて見れたというか、エバンゲリオン見てるなーという気分になれたというか。めちゃくちゃ事情説明でもありますが。ミサトの背景をAパートのケンスケから引き続きリツコが全部喋ってくれますが、加持リョウジくんのこと以外は前作単独でも十分理解できるようになっているので冗長なんですよね。今作はとにかく全部説明してくれるのでありがたいといえばありがたいんですが、ある意味で観客として信頼されていないわけでもあって、ここらへんのバランスにもしかしたら前作に対して単純に画面や台詞を追えてないだけなのにやたらと難解だとか意味不明だとか騒ぎまくった方々の大声が響いていたとしたら嫌だなと思ってしまうんですが、確実に個人的な思い込みにすぎないのであくまで思い込みということにしておきます。シンジとアスカの会話についてもまあそりゃそうだよなということを改めて言葉にしているだけなんですが、このあたり、なんというかマリはいい人だなというか。アスカに対してもシンジに対してもきちんと心のクッションを敷いてあげていて、飄々としている人みたいな空気を出してる時は特にどうこう思わないんですけどこういうちょっとしたところはなるほどこの二人からある程度信頼を得られる人ではあるよねという納得があります。髪切ってるところとかはまたなんか適当こいてるなーという感じにはなるんですが。あとびっくりしたのがここでアイキャッチが挟まることで、なんというか全然キレてないタイミングですごい義務アイキャッチで、どうしても旧劇場版の最高のタイミングでのアイキャッチと比較してしまうところではあります。サブタイもそんなにひねってないし。

 

Cパートは全般的によかったというか、むしろ素直に楽しめたのはここくらいかもしれません。ヴンダーが大気圏突入するあたりは映像としても素直に臨場感と迫力があったし、その後の戦闘もまあ楽しかったし。あとここのヤマト作戦とか言い出したあたりでもしかして今作あんまり力んで見るものではないっぽい?とちょっと笑えたのもあります。いやまあ振り返りだからわかることですが、当時の自分はそりゃまあ力んでいたよなと。力むなという方が無理なんですけど。降下してからの戦闘も概ね満足で、新2の装備はもうちょっとじっくり使ってほしかったとかNHGに対してミサトがあまりに無策過ぎるとかいくらなんでも裏コード999あっさりしすぎだろとかはあるんですがもうそれはそういうものなので……。ヴンダーが貫かれた瞬間の絶望感はかなり強くて、そもそもこの戦いってネルフからするとヴィレが突っ込んできた時点でほぼ勝ててしまう戦いなんですよね。それでもやらなきゃいけないのがヴィレだし、実際勝てない戦いなので普通に勝てないだけというのは辛いけれど妥当ではあります。戦闘以外だとやっぱり黒き月をどうこうしてわけのわからない事態になっていくところは楽しいんですよね。そもそも黒き月が新劇場版においてなんなのか一切出ないままで本来の用途とは異なる使い方をされたりとか、心底かっこいい第13号機の貫手、めちゃくちゃいい劇伴で乗っ取られていくヴンダーのあたりは前半の抵抗感もだいぶ薄れて素直に盛り上がれました。そこからのゲンドウの説明パートはまあ説明だな~~~~、みたいな。

 甲板の乗る乗らない騒ぎについては本当にミサトさんの演技が心に迫ってきて、もちろん再三書いてきたようにQ見てたらこういう考えでここにいるのはわかるんですけど、その上でどうするのか、という場面として本当に良かった。ミサトさんはこういう人である、という中で一番いい部分が出ていた。サクラやミドリもまあいい役どころではあるんですけど、逆にそれ以外というか旧ネルフのオペレーターが割を食ってしまったなという部分はあります。これだから若い男はbotになってしまったマヤさんはまだいい方で、本予告でグータッチしてまさかこの二人に最後の最後で見せ場が?と思わせてくれたシゲルとマコトがマジでグータッチしただけだったのはまあ確かに今更この人達でドラマやられてもな……って納得もするんですけど、やっぱりなんかほしかったですよね。この下りで流れている劇伴が序で乗れハラされている時のアレンジなのも完結作の見せ場としての情感をいい感じに出してくれて、I'll go on lovin' someone elseという曲名が本当に答えだなあという感じです。何よりシンジを送り出すときのやり取りが胸に来て、ミサトとシンジが素顔で向き合うのは破でシンジが僕はもう誰とも笑えませんと告げた時以来です。加持リョウジについて、僕は好きだよとシンジは笑いかけます。行ってきますと自分から告げたシンジを、ミサトは行ってらっしゃいと送り出します。行きなさいシンジくんという叫びは、あなた自身の願いのためにという言葉は、結局のところミサトが自分の後ろめたさに後押しされていたからこそのものでした。それがこういう形で変化して繰り返されたのはものすごくよかったし、最終的に放り投げられがちだったシンジとミサトの間柄についての落とし所としてこれ以上のものは望めないでしょう。ここは素直によかったところです。

 

 で、Dパートなんですが、こう、ここがまた引っかかるというかなんというか、身も蓋もないことをいうと全然真新しくなかった。Cパートでいい意味でわけのわからない謎概念謎現象謎儀式が起きて、シンジのお話がひとつ区切りをつけて前を向いて、画面もいい感じに炸裂してきて、というのを経てたどり着くのがゲンドウなのは妥当なんですけど、そのゲンドウがなんというか、“あ、そっち行くんだ……”だったんですね。確かに新世紀・漫画版・旧劇場版通してシンジとゲンドウが正面切って対峙するというのはやっていないことではあるんですけどやっておもしろかったかというとそんなことはなくて、こうなるのはわかるしやらなきゃいけないんだけどこれかあ……って気持ちになってしまったんですよね。その一つに碇ゲンドウという人間が思ったほどこれまでと代り映えしないというか、むしろ新世紀のときよりも全然話の通じる人間だったのがあります。序から少しずつ 少しずつ違う方向に進んでいって、状況としては前向きではないにしても、人物の経路や行き先で言うなら確かに前はいけなかった場所に行けるかもしれない、違う景色が見られるかもしれない、という期待の先にさほど方向性が変わらないまま話が通じやすくなったゲンドウを置かれるとじゃあ今までの変化と前進と繰り返しってなんだったの?となってしまう。結局妻に先立たれてもう一度会うために世界を巻き込んだ人、というのはなんにも変わっていないし、この路線ならむしろ漫画版の積極的にシンジを憎んでいるゲンドウのほうが情けない悪役としてまだ映えたような気がします。画面にしてもそれまでのわけのわからなさからかなり実直な旧劇場版の参照になってしまって、マリの台詞で示唆されているように外面が第26話で中身が第弐拾伍話・最終話(碇ゲンドウの場合)というのを序破Qを締めくくるものとして見せられても、なんというか、まあ、そうですね……という気持ち以上のものにはならなかった。ゲンドウの独白も弐拾伍話でやりそうな感じかつ真新しくない、碇ゲンドウという人間を今語り直すにしては別に新しくもなければひねりもないというもので、ここでものすごい腑に落とされてしまうんですよね。Aパートほど抵抗感の強いものではないんですが、結局これやるんだ、という気持ちは割りと強かったです。第26話との違いとしてヴィレのメンバーが自由に行動できているという点があって、そこでもいろいろやっているんですが、ここもなんというか……。これに関しては良し悪しというよりは好みかもしれないんですが、結局ミサトが突っ込んで自己犠牲してしまうのってものすごくそれでいいの?と疑問でした。視聴者にとって加持リョウジくんは親が両方命を犠牲にした上にそのことを知らされていない人になってしまうし、そもそも葛城ミサト自体が普段は自分たちを放置していたのに最後の最後で自分を守ってくれた父親、という存在に囚われて生きていた人なわけです。確かに加持リョウジはミサトが親だと知らされていない以上人生を呪われることはないかもしれませんが、見ている人間からするとミサトは結局父親と似たようなことをしていしまっていて、それがミサトという人間の物悲しい業だとする向きもわからなくはない、わからなくはないんですが、あれだけシンジをしっかり送り出せた人間の末路としてこれはちょっとなあ、と思ってしまいました。ファザコンかつ加持への思慕から似たような行動をしてしまう、と捉えることもできなくはないんですが、29歳のミサトならともかくこのミサトは流石にそこは通過してると思いたいですし……。名付けの件も相まって、確かにこういう構図にすると一人の人物の帰結として筋は通りますが、この筋は本当に通すべき筋だったかというと俺はそうは思えなかったんですね。死ななくても良かったんじゃないかなあ。こういう自己犠牲でドラマを作りがちなのは癖というか、最近公開された映画についての本に脚本での自己犠牲についての言及があったのでそういうものだとは思うんですが。

 その後の夢のスキマに合わせてゲンドウとお別れしてからも終わる世界2021は続いて、ここについてはそこそこ良かったです。流石に第26話の海岸が出てきたのはかなりびっくりしたし感情を引きずられましたけど、全体的に式波アスカの落とし所としては順当なものですし、結局は自分でしかないパペットから自分以外がいるきぐるみへ、という意味のずらし方もよかったです。ただ一個、海岸でのアスカはどうも式波でも惣流でもない、“エヴァンゲリオンのアスカ”全体に向けての語りかけっぽくて(公開後この場面のアスカが商品化される時は絶対に『アスカ・ラングレー』名義)、こういうシーンをもっと見たかったのが正直なところです。あとここで総体としてのアスカに語りかけられても結局その先の未来が描かれるのは式波で、やや中途半端な感も否めません。この新世紀・旧劇場版への言及のバランスはあくまで新劇場版をベースとしているのが良し悪しで、終盤のスタジオに零号機改のスーツがあるのはいいんですけど、それならそれで槍で貫く時新劇場版だけじゃなくて新世紀含めて全部のエヴァを貫いたほうがさらば全てのエヴァンゲリオンに沿ってるのではとつい思ってしまうんですよね。もちろんそうすると漫画版やゲームやメディアミックスの機体はどうするんだということになってしまいかねないのでそれなら新劇場版だけという区切りを設けることは理解できるんですが、せっかく最後ならそこらへん取っ払って量産機も甲号機乙号機もその他エヴァも全部まとめて貫いたほうが絶対に良かったんですけど、まあ難しいですよね。やってほしかったけど。

 カヲルくんの落とし所については全く引っかかるところがありませんでした。誰かを幸せにしようとしていた人がそのことによって自分を幸せにしようとしていたというのはありがちな構図で、どんな人間にもある程度ある部分なのでどういう人物に対しても適用できてしまうものではあるんですが、カヲルくんの場合は違和感なくうまくいっていたと思います。涙は自分しか救えないから、僕が泣いても他の誰も救えない、とシンジは自分が泣かない理由を説明しますが、まず自分を救うこともまた大切なことの一つです。シンジに手を差し伸べられて涙するカヲルは、ここでようやくその最初の一歩、自分を救うということができたのでしょう。救う-救われるといった関係ではないシンジとカヲルの兆しが見られたこと、何より新世紀エヴァンゲリオン最終話の英題である“Take care of yourself”そのものに渚カヲルがようやくたどり着いたのは、長い時間をかけたからこそ納得できる結び方でした。渚司令とかは流石に説明不足だと思うけど。

 そこからの綾波に関しては村でやったことの復習なので復習なんですが、ここで第26話の映像をそのまま持ってきてさらに新劇場版をつなげてくるところはまあ流石にどうやっても気持ちがこみあげてきてしまいます。今作をものすごく雑にまとめると、綺麗に終わるためにあらゆる手腕を駆使して綺麗に終わったと感じられる型に全てを当てはめていて当てはまり方に良し悪しはあれど当てはめ自体はやれているので綺麗に終わることはどうやってもできている作品、となります。特にこの場面なんか剛腕も剛腕なんですが、剛腕だけあって流石に心が持っていかれました。ただその感慨をネオン・ジェネシスの一言が粉砕するんですが。え、今言う?いや確かにタイトル回収としては盛り上がるけどでも今か?(序数)・インパクト→アナザー・インパクト→アディショナル・インパクト→ネオン・ジェネシスっていう並びなのもわかるけどそれ本当に今かなあ?もう新世紀エヴァンゲリオンでもヱヴァンゲリヲン新劇場版でもなくなっている今拾う???みたいな混乱といやー後付もここまでくれば立派だなーーーという気持ちがごちゃまぜになって、悪いわけじゃないしシーンとしては好きなんですけど。

 VOYAGERについては俺がこの曲を知ったのがミカるんXだったので、流れ始めてからしばらくして(…………ミカるんX!!!!)と思い当たって盛り上がるというのがありました。ネオン・ジェネシスについてはもう先に書いてしまったんですが、やっぱり新劇場版の機体しか貫かないのはやっぱり中途半端なんですけど、第13号機の腕の使い方は手の使い方のお話でもあるこの作品でとてもよかったと思いますし、さようなら、全てのエヴァンゲリオンの言葉も最後を飾るにふさわしいものでした。ただやっぱりどうしてもやってることは第26話の幕引きとかなり被ってしまうので、結局これをやるのねという気持ちはどうしても残ってました。それに、最後に既存のエモい曲を流していい感じに締めるのはどうしたって破の翼をくださいを連想してしまうわけで、もちろんそれも“繰り返し”なのでしょうけど、前もやったよなこれという気持ちもあり。言ってしまえば浜辺だって素材に解体されるシンジくんだって前にやったことで、もちろん前にやったことだからといって決して前と同じになるわけではないんですが、でもね……。

 Dパートが特にそうなんですけど、自分が新劇場版に期待していたことって新しさだったんです。前にやったことだけど前とは異なる結果になる繰り返しという営みを経て、少しずつ 少しずつ前とは違う方向へとずれていって、以前はいけなかった場所にたどりついて、その先を見せてほしかった。それ自体は遂げられたと思うんですけど、その先と言うには思ったより新しくなりきらなかったというのが率直な実感でした。確かに前はできなかったことをしているし、それにこれまでの変化が寄与していないわけじゃないんだけど、それこそゲンドウのように変わっていはいるけど新しいわけじゃない変化もそこかしこにある。言ってしまえばあの海岸の後を見たかったんですが、結局それはかつての結末をなぞり変えた先のほんのわずかな時間でしかなかった。じゃあこれが不当かというと、決してそんなことはないわけです。Qがものすごく入り組んだ第弐拾四話の再構築だったのだからそれを受けた今作が第弐拾伍話・最終話・第25話・第26話の再構築になるのは当然ですし、そのまま繰り返すのではなく変化して確かに新しい方向に向かってはいるわけです。そもそも新世紀エヴァンゲリオンのリビルドとして始まった作品なんだから、そういう終りを迎えるのは適切ですし、しっかりとやるべきことをやったと言っても差し支えないとも思います。でもやっぱり、俺としては思ったより無難で、なんでしょうね、結局なんだかんだで新世紀エヴァンゲリオンを見せられたなという気持ちになってしまったんですよね。でもそれって妥当じゃないですか。いっそ一概に否定しきれるものであればよかったし、実際一概に否定できるところも多々あるんですが、納得できる・好めるところもそこそこあるからこそう、うーーーん……という気持ちが一層強くなってしまって、見終わってからしばらくうなり続けていました。

 鑑賞後のこうした気持ちが複数回見ても変わらなかったのも大きいです。それこそQなんかは見る度に新しく噛み砕けてどんどん自分の中で豊かになっていったんですが、今作はまあそうだよなという気持ちからほぼ動かなかった。三回目くらいでシンジくんが素材になっていくシーンで確かにこれは絵と声での集まりで線と音と時間が生んだ錯覚でしかないけどそれでも生きてるんだよなと感傷的になりもしたんですが、それは別に作品からもらったものではなくてこっちが勝手に連想した事柄で盛り上がっただけなので無関係ですし、何より綺麗さっぱり終わられてしまったので、こっちとしてもじゃあこれで終わりなのね、以上のものがあんまり出てこなくなりました。終劇といわれればそれが終劇なので。

 

 VOYAGERついでに音楽について。新劇場版で初めて過剰だな、と思ったくらい曲が気になりました。冒頭とかDパートはいいんですけど、村がとにかく過剰でもう少しボーカル抜いてもよくない?と感じました。おまけにいい感じの曲に合わせて点描をつないで時間経過する、みたいなシーンがABパートで三回あるし全部ボーカル曲だからなおさらくどく感じてしまって、サントラで曲そのものとして聞くといい感じなんですけど劇伴としてはうるさいなというのが第一印象でした。もちろんよかったところもあって、特に初号機覚醒のpillars of faithはカラー十周年記念展以来五年ぶりに聞けて嬉しかったですし、アディショナル発動時のWhat ifはまさに鷺巣詩郎炸裂という感じで良かったし、A4のいろんなアレンジが聞けたのも嬉しかった。ただ、全体的には散漫な感じが拭えませんでした。サントラで聞くといい曲なのは間違いないんですけど、やっぱりボーカル曲もうちょっと減らしたほうが引き締まったと思います。OneLastKissと続くBeautifulWorldはめちゃめちゃよくて折に触れて聞き返しますが、作品の印象はこの二曲にだいぶ助けられてますよね。Qの時に桜流しに救われてるみたいな発言をたまに見かけましたが、それを言うなら新劇場版自体が宇多田ヒカルにおんぶにだっこです。

 

 とまあそんな感じで、見終わって公開が終了するまでの間はだいぶうーーん……という気持ちを抱えていて、なにせ十七年心の結構な部分を割いて追いかけ続けた作品が完結したこと、それが思ったよりも自分にとって微妙だったことというのは人生で初めてだったので扱いに本当に困っていました。絶賛する気には間違いなくならないけど、全否定するほどのものでもない。自分にとって本当に普通の終わり方をしたことを結構持て余していたんですが、今はそれすらもだいぶ薄れてきています。二作目についての日記に“ここでの整理は思い入れや好意的に捉えた部分をしっかりそういうものとして分離させることも含みます。自分と作品との関係とはほかに代えがたいたったひとつきりのものですが、それと同じくらい、無数に転がってるありふれた取るに足らないものでもあります。思い入れを剥がすことで見えてくるものもあるでしょうし、美化を素直に美化と認めて取り去ることでわかる形もあるはずです。”なんて御大層に書きましたが、なんてことはない、整理するまでもなくぼーっとしている間に何もせずとも思い入れもなくなり、美化も風化して今更これといって別にどうも、というところまで来ています。最近公開されたスタッフの共通する映画にしても、ある人物の扱いがいや今これはないよなあという点以外はこの人たちがこれを作ったらこうなるよなという感想にとどまって、むしろこのほうがある意味健全なのかもしれません。余計な期待をせず、過度に思い入れず、痘痕もえくぼにせずに抵抗感のあるところはきちんとひっかかり、楽しめるところは楽しむ。来年に公開を控えている作品もたぶんそんな感じで、ほどほどに楽しんで、ほどほどに受け入れられなくなりそうです。

 

 なんというか、好きだったものに対して気持ちの精算をしよう、それをあまりかっこつけて美化して物語仕立てにしないようにしよう、それで関係の区切りの一つにできればいいなという気持ちで始めたふりかえりだったんですが、普通に風化して書く気がなくなっていくというある意味当たり前のところに落ち着きました。別に嫌いになったとかでもなくただ薄れていく。一つ挙げるとすれば、今自分が好きであるものごとに関しても同じ道をたどるのではないかということは怖いです。ただ、同時に熱狂すること・のめりこむことは無条件で是とされるべきではないよねとも思っていて、自分がファンとして問題がある人格をしていることをどうやってうまく扱えばいいのか、という段階だと自分では感じています。それこそケンスケの言うように“心配のし過ぎは互いによくない”ですし、なにかを心の支えそのものにするのではなく、何かを心の支えの支えに、位の距離感で信じることが最も適切な態度ではないか、とも。ただもちろん、そもそも適切な態度の適切さってなんなんだよということもついてくるわけですが。再構築の作品について求めるものも、これはものすごい暴論なんですが、自分よりふた周りも上の世代の作るものにあまり新しさを求め過ぎるのも筋違いだったのでは、というスタンスになっています。求めるのはいいけれど求め過ぎるのは違うというごく当たり前の結論です。

 何かを好きになることは、こうしたキモくて身勝手でわがままで短気な自分に何度も直面することでもあるんですが、そんなこと何かをきっかけにせずに自分でしっかりけりをつけてから何かを好きになるべきだとも思います。こうしたことに考えが巡るようになったきっかけとしては間違いなくこの作品がこういう終わり方をしたことがあるので、その点については素直に感謝しています。十七年間かけて得たものとして、これからもこうしたことについては考えざるを得ないし、考え続けていきたいです。

 

 

 最後に一つだけ。作中で“さようならはまた会うためのおまじない”という台詞がありますが、あれは明確な誤りです。また会うためのおまじないとしての言葉には、「またね」という言葉があります。もちろん言葉というものは常に文字通りの意味を持つものではありません。それこそ二度と再会が叶わないだろう相手に対してなげかけられる「またね」は、意味としては「さようなら」になりますし、別れに際してあえて再会を約す言葉を選ぶことはまさしく“おまじない”でしょう。もちろん逆もありえる話です。ただ、素直に再会を願うのであれば、ほとんどの場合適切なのは「またね」ではないでしょうか。なんとなく言葉選びで納得してしまいそうになりますし、絶対にそうとも限りませんが、それでもやっぱり基本的にさようならはさようならで、またねはまたねだと思うんですよね。

 というわけで荷を降ろすためというよりは荷が降りていたことを認めるための文章になりましたが、一応これでこの作品に関する振り返りは終わりにします。お付き合いいただきありがとうございました。またね。